2024年4月30日火曜日

今月の本棚-189(2024年4月分)

 

<今月読んだ本>

1)外事警察秘録(北村滋);文藝春秋社

2)新しい国境 新しい地政学(クラウス・ドッズ)東洋経済新報社

3)上野アンダーグラウンド(本橋信宏);新潮社(文庫)

4)司馬遼太郎の時代(福間良明);中央公論新社(新書)

5AI翻訳革命(隅田英一郎);朝日新聞出版

6)危機を乗り越える力(浅木泰昭);集英社

 

<愚評昧説>

1)外事警察秘録

-地味だがそれなりに活動している我が国諜報組織、スパイマスターがその内実を垣間見せる-

 


40歳過ぎ、工場のプラントの計測・制御技術者から本社情報システム部門へ移り、経営情報管理を担うことになった。もともとスパイ小説が好きなジャンルだったこともおあり、情報(Information)と諜報(Intelligence)の違いに関心が向いた。書架にはMI-6 (英)、KGB(ソ)、CIA(米)、FBI(米)などの諜報機関に関する書物が溢れている。しかし、我が国のものはそれに該当する統括専任機関がないこともあり、統合的なものは少なく、外交や国家安全保障の一部として語られることが多い。本書はそれに対してある意味そのものずばり題名、20233月の本欄で紹介した小谷賢著「日本インテリジェンス史」の冒頭に本書著者のひと言「インテリジェンスほど、国家作用に激烈な影響を及ぼすものはない」が取り上げられており名前を記憶していたので、最新の諜報活動を知りたく本書を求めた。

我が国のインテリジェンス機関は、内閣官房長官の下にある内閣情報官が内閣情報調査室(内調)を介して諜報活動を統括、その実施部隊(いわゆるインテリジェンス・コミュニティ)は、公安調査庁(法務省外局)・警察庁外事情報部・外務省国際情報統括官組織および国際テロ情報収集ユニット・防衛省情報本部それに内調直属の内閣衛星情報センターから成る。また、情報活用部門最上位に内閣府国家安全保障会議(NSC)と国家安全保障局(NSS)が在る。

著者は1956年生れ、1980年に警察庁入庁、在フランス一等書記官、警備局外事情報部外事課長、第1次安倍内閣首相秘書官、警備局外事情報部長、2011年野田内閣で内閣情報官、引き続き第2次~第4次安倍内閣、菅内閣でも同ポストに留任、第4次安倍内閣で第2代国家安全保障局長に就任する、我が国を代表するインテリジェンス・オフィサー、217月退官。本書は退官後20226月号から20238月号まで月刊文芸春秋誌に連載された稿に、安倍元首相銃殺事件に際し同誌に寄せた「追想・安倍晋三元総理大臣」を加えたものから成る。

月刊誌連載と言う性格もあろう、内容は外事警察の全容を体系的に解説するものではなく、著者の体験談を中心に12の事件・話題を取り上げ、外事警察と国家安全保障や外交あるいは国内政治や報道、刑事警察との関わりを語る形式になっている。いずれも既に公表されている話題ではあるものの、独自の背景説明や著者の意見も十二分に盛り込まれており、一般報道とは異なる視点で理解させ、事件の核心を分からせてくれる。

例えば、北朝鮮拉致問題。著者が関わるのは200411月に開催された第3回日朝実務者協議、既に3回の成果として5人が帰国しているが、横田めぐみさんの遺骨DNAが不一致となり、死亡と告げられている拉致対象者の死に至る過程を先方医療関係者に確認することが目的だ。滞在するホテルの造り(鏡が異様に多い)から関係者聴き取り(結局曖昧なままで終わる)まで協議過程を解説した後、拉致問題の出発点に話を遡る。入庁の遥か以前1974年富山県高岡市雨晴(あめはらし)海岸でアベック拉致未遂事件が起こっており、警察庁は北朝鮮によるものと認識、政府要路にその旨報告する。しかし、政治も報道も世論も動かなかった当時の親北朝鮮ムードをその後に起こる拉致遠因と見做し、国内世論喚起やスパイ取締に関する法整備の遅れを問題視る。因みに、2014年成立した特別秘密保護法でも、国益を深刻に侵害する犯罪を適切な量刑で罰する法律はない。

総てが事件絡みと言うわけでもない。20221月プーチン大統領との単独会見が面白い。その人心掌握の見事さである。著者は国家安全保障局長、この身分で単独会見は通常ありえないが、前年ロシアのカウンターパートが来日した際安倍首相が会談したことの返礼として実現する。通訳を入れて40分の話し合い内容は現時点ではマル秘。部屋を出る際大統領は「同じ業種の仲間だよな、君」と話しかけ、送り出す。プーチンは大統領である同時に、依然としてケースオフィサーでもあるのだ。

特別秘密保護法制定までの過程ではジャーナリズム批判もある。多くの報道は戦前の思想犯取締を対象とした治安維持法との類似性を強調して制定反対の論陣を張った。しかし、治安維持法をきちんと調べてそこから論を展開したものはなく、唯一それを読みこなし違いを明示したのは読売新聞主筆渡邊恒雄(ナベツネ)だけだった。軽薄左翼リベラルとの違いは歴然だ!

国家安全保障局長として力を注いだのは経済安保、中国の産業スパイ摘発などの事例が紹介されるが、関連法規の不備が防止・取締強化の限界となっている。

12話の焦点は国家安全保障に定められているものの、立場も内容も時代も異なるので、複数の短編小説を読んだような読後感になったが、知られざる外事警察における情報収集・分析と諜報活動の関係を垣間見えることができた。残った疑問は、国益に資する統括諜報組織としてMI-6CIAFSB(露;KGBの後継)のようなものが必要ないのか?スパイ取締に関するさらなる法整備はどうなるのか?である。

 

2)新しい国境 新しい地政学

-自然環境変化で変わる国境から、黄金時代再来を夢見る国境、如何なる国境管理も防げない国境侵犯まで、地政学の権威がその現状を教授する-

 


石油企業に長く勤務すると経営企画や原油調達部門でなくても戦争に敏感になる。直近はハマス-イスラエル戦争(ガザ戦争)、悪くすると第五次中東戦争に発展しかねない。在職中勃発した中東戦争は第三次(19676月;六日戦争)と第四次(197310月;第一次石油危機)。根源は英仏の二枚舌・三枚舌外交とそれを背後で支えた米国による19485月のイスラエル建国にある。その点で、敗戦国でもないのに父祖の地を追われたアラブ人・パレスチナ人の怒りは理解できるし、若い頃はアラブの勝利を願ってさえいた。しかし、後年IT系に多いユダヤ系米人の友人・知人が増えるにつれ、振子はイスラエル側に傾き、両者の争いには複雑な思いを抱く。ユダヤ人の放浪が始まったのは紀元1世紀、ローマ帝国に依ってエルサレムが陥落したときに発するが、ほぼ2000年を経て祖国復興が成る。こんなことが認められるなら、いかなる国もその最大版図あるいは子孫居留地(言語域)を自国領と主張することも許され、国境紛争が多発するのではないか?新たな国境論に注視!と読んでみた。

著者の生年は不明だが、学歴・職歴から1960年代生まれと推察。現在ロンドン大学ホロウェイ校教授。専門は地理学(英地理学会フェロー)・地政学。

1989年末のベルリンの壁崩壊、1991年のソ連崩壊で鉄・氷・竹のカーテンが除かれる一方、EU統合の深化やNAFTA(北米自由貿易協定)のような広域通商機構の発足で、1990年代は国境の閾が低くなった。しかし、21世紀に入ると失地回復(主にロシア)、覇権拡大(中国)、不法移民・難民流入(欧州、米国)などから、国境・領海管理は厳しさを増してきている。加えて、公海・深海、宇宙空間、極地(北極・南極)、サイバー空間、コロナ禍に代表されるパンデミック、環境問題などに依り、新たな“国境戦争(Border Wars;本書の原題)”の火種が随所におこりつつある。本書はこのような現状と近い将来を含む国家間の境界(主権領域))管理に関する論考である。

著者の研究対象の一つに自然環境と国境管理の関わりがあり、この面の考察が興味深い。伝統的な国境は山の分水嶺や河川で定まっているものが多い。しかし、これらとて絶対的な静止状態ではない。イタリアとオーストリアの間にはアルプスが存在するが分割線は氷河の退縮によって変化する。両国は定期的にその変化を観測、それに応じて平和的に国境の修正を行っている。しかし、中印国境、インド・パキスタン国境ではそうはいかず、いまだ紛争の地である。国際河川も欧州では関係各国間で既に境界管理(ダルウェイグ;河川の最深部を境界とする。これも動く)や水資源管理が確立しているが、他では領土や水争いが絶えない。古いところでは中ソ間を流れる黒竜江(アムール川)の中州にある珍宝島(ダマンスキー島)を巡る争い、ガンジス河口の広大な三角州の変容はバングラディッシュとインドの紛争を惹起する。そのガンジス河やインダス河の源流はヒマラヤやチベットにあり中国の水利政策に影響され、ラオス・ヴェトナム・カンボジャ・タイ・ミャンマーを流域に持つメコン川と併せて、一帯一路戦略と不可分だ。アフリカ東北部を縦断するナイル川またしかり。エジプトはエチオピアとイスラエルの接近を懸念する。河川と湖沼の関係(アフリカ、旧ソ連邦構成国)あるいは帯水層(イスラエル・ヨルダン)も国境が絡むと複雑だ。

人為的な国境線で問題を起こしているのは旧植民地。勝手な線引きが現在も続く紛争のもとになっている。著者は英国人、インド、パキスタン、中東、アフリカなどにおける国境策定の杜撰さにも目を向けて往時を振り返る。

海に対する主権領域は19世紀末艦砲の届く距離内(3km)を領海と定めていたが、その後地理学上の考え方(大陸棚)や経済水域を反映するようになる。しかし、大陸棚の定義、岩礁と島の区別など曖昧な点が多々あり、それにつけ込むような南シナ海(南沙諸島)における中国の一方的な主張・行動を批判する(ここでは尖閣諸島問題も取り上げている)。さらに、法的規制のおよばない公海・深海への問題はそれ以上に深刻化する可能性がある。

地政学・政治地理学的な分析ばかりでなく、国境管理技術や経済に関することも取り上げている。トランプが始めた米・メキシコ間のフェンス、ドローンを含む監視システム、スマートボーダー入出国管理(個人情報への踏み込み)、技術が多様化するばかりではなく、投資額も急上昇しているのだ(国境ビジネスの拡大)。また教育の面での影響力にも触れ、歴史・地理教育においてその「黄金時代」を想起させる過度なナショナリズムが紛争を呼ぶと警告する。(本書には書かれていないが中国で流布する「国恥地図」(異民族である清朝最大版図)などその典型だろう)。一方、いくら技術・資本をつぎ込み愛国教育に励んでも、一国では抑えられないパンデミック、気候変動、サイバー戦には在来型国境管理に限界がある。結果は“迫り来る新たな国境紛争”、その想定例を示し終章とする。

「百年国恥」を晴らさんとする中国、冷戦後の解体の歴史を逆転せんと欲するロシア、本書の中でも際立って事例を引かれる両国、隣接する我が国にとって覚醒される一冊であった。原著出版が2021年のため、クリミヤ半島侵攻以外はウクライナ戦争には触れていないがその予兆は充分うかがえる。プーチンの領土観は「ロシア語を日常語とする地域はロシア」なのだ。

 

3)上野アンダーグラウンド

-よく知っていた上野だが、「こんな上野は知らなかった!」の数々、突撃ルポでそれを知る-

 


小学校3年生から大学1年まで住まいは千葉県松戸市に在ったのだが、小学校6年生から高校卒業まで上野・御徒町界隈が通学域だった。常磐線で乗り換えなしで通える所に越境入学していたからである。小学校は上野広小路交差点から南西に100mほどの所、中学は山手線・京浜東北線を軸に小学校を東側に反転した所に在った。高校は上野駅公園口を出て動物園の裏手、小中学校より最寄り駅から遠方になるが徒歩で15分程度。この三点を結ぶ地域が私の心の故郷(ふるさと)、他の繁華街と異なりなかなか奥の深い所なのである。その一端を見せようと、この春休み花見を兼ねて孫二人を湯島天神→松坂屋裏のとんかつ屋→アメ横→西郷さん→国立博物館→科学博物館→西洋美術館と連れまわした。しかし、熟知しているつもりの上野だが、少年時代の行動時間は明るい内に限られ、断片的に話は聞いていたものの、夜の世界やいかがわしい場所に踏み込んだことはなかった。タイトルの“アンダーグラウンド”に惹かれそこをのぞき見ることにした。

著者は1956年生れ、ノンフィクション作家。著者紹介に「全裸監督村西とおる伝」がNetflixでドラマ化、世界190カ国に配信され大ヒットしたとある。著者名も作品も全く知らないが、本書を読む限りルポライターが相応しい。取材時期は2015年、単行本出版は2016年、文庫本あとがきにあるが、現在全く様相が変わってしまったものもある。上野の暗部について、それなりの収穫はあったが、かつての三流キワモノ週刊誌を思い起こす読後感だった(しかし、「ここまでやるのか!」と言いたくなる取材魂には感心した)。以下章のタイトルを列記し、一部関わりのあったことにコメントを加える。


第一章 高低差が生んだ混沌(カオス)、第二章 上野“(クー)龍城(ロン)ビル”に潜入する、第三章 男色の街上野、第四章 秘密を宿す女たち、第五章 宝石とスラム街、第六章 アメ横の光と影、第七章 不忍池の蓮の葉に溜る者たち、第八章 パチンコ村とキムチ横丁、第九章 事件とドラマは上野で起きる。

九龍城は全く知らなかった。昭和通りに面しワンルームマンションとして建てられたものようだが、ここに中国エステが入り込み、ビル内に“大小便禁止”が貼られるほど魔窟化している。往時(中学)は無かったし、その後マンションに戻ったとある。

男色の街は、その歴史を知り、なるほどと思った。動物園や国立博物館の在る上野公園は維新まですべて寛永寺の所有地、末寺も多々あり修行僧など数千人が起居した。男だけの世界に怪しげなサービスを提供する陰間(かげま)茶屋が周辺に出来、これが今に続くと言うのである。第五章のスラム街とも関係するのだが現在国立西洋美術館の在る所は高校時代葵部落と呼ばれるスラム街だった。夜になるとオカマが声をかけてくると言われていたが、さすがに高校生を誘うことはなかった

本書に依れば我が国最大の宝石屋街、山手線と昭和通りの間に在り、ここは完全に中学校の学区内、当時は時計関係(腕時計、バンド)などの卸商が軒を連ねていた。何故ここがそんな街になったか?御徒町の御徒とは足軽のこと、生活が苦しく各種職人(平和な時代はこちらが本業)を兼業しておりその伝統は後世に継続、中学の友人にはそんな家庭の者が多数いた。

アメ横は、アメリカではなく(あめ)である。だから子供でも往来することに全く問題なかった。ここは古くからの商店街ではなく、空襲による類焼が鉄道におよばぬよう強制立ち退きで更地にたところに戦後闇市ができそれが発展したものである。この地に復員兵・引揚者と第三国人(旧植民地人;敗戦国民でないので警察力行使に限界があった)が集まり争いが絶えず、のちにアメ横センタービルのオナーとなる近藤広吉が両者の手打ちを行ったとある。この人の息子は小学校の同級生、当時からアメ横を仕切っていると聞かされていた。

年末になるとそこで荒巻や鮮魚の大売り出しが行われるが、ほとんどがにわか鮮魚商、冷凍の蟹は解凍するとスカスカ、マグロのトロも実は赤身。これに対して乾物(貝柱、なまこ、干し椎茸)などは一級品が集まっており、華人系(シンガポール、香港、台湾)レストラン経営者・食通に人気が高いとのこと。これは知らなかった。

アメ横の経営スタイルは一つのビジネスに徹せず、売れるものを売る。ゴルフブームではゴルフ道具、スニーカー人気が起れば靴屋に変じる。それ故にメインストリート(中央通り)より、アメ横の店の残存率ははるかに高い。

上野駅の正面玄関の南東方向、昭和通りの東側はキムチ横丁と呼ばれるコリアンタウン(都内最大;ここのコリアンは新宿・新大久保のコリアンタウンを新参者の街と蔑視している)、先のアメ横の手打ちのあと、行政がここへ移動するよう指導したとある。中学の学区内だが、そのことは全く知らなかった。通学路から外れていたからだろう。また、このエリアはパチンコ村でもあり、パチンコ・パチスロのメーカー・販社8割がここに集中していることも本書で初めて知った。

今度出かけたら、これら知らざる上野を探訪してみたい。ただし昼間外からのみ。

 

4)司馬遼太郎の時代

-国民作家司馬遼太郎人気を「二流」「傍流」を因とする、異色の歴史社会論だが、研究紹介・読み物、いずれも中途半端-

 


司馬遼太郎の小説で既読のものは「坂の上の雲」一編のみ。もともとノンフィクション好みの読書傾向からこのことはさして特異なことではない。それに対し紀行文(「街道をゆく」など)や歴史エッセイ(「この国のかたち」など)は多々読んでおり、作品全体を通じては好きな作家の一人である。しかし、諸作品を通しておおよその経歴は知っているものの、今まで司馬の伝記の類は読んだことが無かった。著者は研究者、どんな切り口で司馬を解剖して見せるのか、文学論?作家論?歴史論?それともただの読み物か?それを楽しみにジム仲間回覧の本書を手にした。

著者は1969年生れ、歴史社会学・メディア史を専門とする立命館大学産業社会学部教授(博士)。大学卒業後一旦出版社に就職、のちに大学院に進み学者となった人。序章で、司馬遼太郎を論じたものは文学論・歴史論の視点からは多々あるが、歴史社会学の角度から考察されたものは皆無と述べていることからも、斬新なアプローチを期待した。

歴史社会学の切り口は二点、一つは生い立ちから人気作家に至る過程、ここは専ら個人に焦点が当てられる。もう一つは作家として生きた時代の世相である。前者は作家を論ずる共通の視点だが、ひと味違う切込みを試みる。司馬には「二流」「傍系」意識が強かったとの見方だ。これがある種の批判精神を生み、それが作風に反映されているとする。そして後者が著者独自の考察となる。ひと言で言えば「時代が作風とマッチした」と見るのだ。

先ず「二流」「傍系」意識が学歴と職歴中心に語られる。司馬の実家は祖父の代からの薬卸商、格別豊かではないが彼に大学教育を施すことに問題はない。小学校では優等賞をもらうほどだから本人もその気は充分ある。しかし、私立中学に進みここの校風が合わなかったことと、数学が苦手で旧制高校受験に2回失敗する。4年で受けた大阪高校、5年で受験した弘前高校。やむなく大阪外国語学校(専門学校;大阪外国語大学→大阪大学外国語学部)蒙古語科で学ぶことになる。旧制高校と専門学校の違いは“教養”教育の有無にある。この時の“教養コンプレックス”が作風・作品に影響している、と因果を関係づける。職歴も、ほぼ同じレンズで見つめる。復員後最初の就職先は京都の地方紙、担当は宗教関係、このあと産経新聞社に移り美術記者などを経て編集局の幹部になる。しかし、三大紙(朝日、毎日、読売)に比べマイナーな存在。作品を書き始めているが、同人誌などには一切かかわっていない。教養コンプレックス・傍流意識がそうさせていたと著者は見るのだ。二流・傍系の眼で見てきた「暗い昭和」、輝いて見えるのは「明るい明治」これが諸作品の根底にある。幕末・維新・明治初期を描いた「竜馬がゆく」「峠」「坂の上の雲」のみならず、戦国時代や徳川時代を描く作品にも「暗い昭和」が反映されていると論じる。

次は「時代が作風とマッチした」。これも著者は“教養”と深く結びつける。教養教育機関ともいえる旧制高校は大学教養部に変じ、旧来の硬い教養(哲学、思想などいわばエリートの教養)が疎んじられる一方、新制高校・大学への進学者が増え、大衆向け教養が求められる時代が到来する。最も取つき易いそれは“歴史”、折しも高度成長期、「坂の上の雲」を見つめる企業人は経営トップから新入社員まで皆司馬作品の登場人物に自分を重ねていく。企業社会との親和性が高く、旧来の文芸作品が学生・主婦などに支えられていたこととの違いは顕著と著者は説く。この傍証として、文庫本・週刊誌・TV・映画の消長、企業経営形態の変化などを援用、社会学的考察を加える。

司馬が自身の作風を「小説でもなく史伝でもなく、単なる書きものに過ぎない」と語っているように、文芸評論家や歴史学者からの評価は厳しいものがある。著者はその代表例として、登場人物や出来事と直接関係ない“余談”が多いことを挙げている。私が読んだ小説は「坂の上の雲」一作だけだが、読ませる力に引きずり込まれた反面くどいとの思いをしばしば覚えた。多分それは“余談”部分だったような気がしている。しかし、この“余談”にこそ学ぶ点が多いと評する人もおり(例えば田辺聖子)、人気の因の一つに挙げている。これは斬新な評だ。

「時代が作風とマッチした」は納得感のある論理展開だが、「二流」「傍系」意識は、同じ話が繰り返され、頻度の多さで司馬作品人気の因果関係を論証しようとしているのでなないかとさえ思えてくる。同時代学歴・職歴コンプレックスを持つ作家は他にも存在した(例えば、松本清張)。彼等との違いは何か?学者の著す書物ならそこまで踏み込まなければ、研究成果としては不十分であろう。読み物としても「二流」「傍系」に辟易としてくる。

 

5AI翻訳革命

AI人間代替論数々あるが、これは「今、英語学習法変更を迫る」現実であることを確信させる-

 


就職した会社は50%外資、常勤役員はすべて日本人、技術文書の読解力さえあれば英語力を問われることはなかった。1981年本社課長に異動、19年の工場生活の後初の本社勤務である。ここで初体験となったのが 資本を持つE社・M社との英文によるビジネス文書のやり取りだった。異動後しばらくは前任者たちが残したものを参照し、専ら英借文でしのいでいたが、「自在に書けるようになりたい」の思いに駆られるようになる。そんな悩みが人事に伝わり、M社英語教育子会社のビジネス文書に関する通信教育受講を薦めてくれた。スタートは高校受験くらいのテストに依るランク付け、最終は顧客・取引先とのビジネス文書作成までのコースである。指導に当たるのは英語を母国語とする人達。教科書も課題も添削も評価もすべて英文、土日中心で卒業まで6年ほど要した。しかしこの成果は大きかった。文書作成のみならずスピーキング力向上にも役立った。爾来多くの英文文書のやり取りを海外企業と交わしてきた。ネットの世界では英文による電子メールが一層役割を増し、ビジネスを離れてもあの時体得した知見・知識が大きな財産になっている。

こんな苦労をAIならいかに軽減してくれるか、そんな好奇心もあり昨年からCopilot(マイクロソフト)やGeminiGoogle)あるいはDeepL(ドイツ社翻訳ソフト;伊→日)を試用している。結論は私以上である。短い文章では、状況を複数設定(フォーマルからカジュアルまで)、それを列記してくれることもある。AI恐るべし!が実感だ。これから翻訳・通訳はどうなっていくか?ひとまず翻訳の最前線を学んでみることにした。

著者は1953年生れの工博(多言語学習支援)、大学院卒業後日本IBM東京基礎研究所、国際電気通信基礎技術研究所(ART)勤務を経て、出版時国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT)フェロー、アジア太平洋機械翻訳協会会長、この分野の我が国第一人者のようだ。

機械翻訳の歴史(波乱万丈)、AIの基礎(翻訳のための深層学習、ニューラルネットワーク)、日本人の英語力、翻訳・通訳の必要性(適用事例を含む)、AI翻訳の評価と使い方、翻訳と通訳の違い(同時通訳への挑戦)、今後の英語教育の在り方(受験英語への疑問)、英語以外の言語への適用など広範なAI翻訳を網羅、これを極めて分かり易く解説している。ただ、出版時期の関係で、生成AI、特にチャットGPTには全く触れられておらず、この点では最新情報とは言えないが、AI翻訳を理解するには十分だ。

機械翻訳の歴史は1945年米国で始まる。冷戦、スプートニクショックと専ら対象はロシア語だった。一時期は年2000万ドルに達する研究費が投入されていたが60年代にはこれがゼロになる。「電算機を含む機械翻訳は無理」と結論付けられたからだ。我が国における当該分野における研究の本格化は1980年代中ごろ日本が一方的に欧米の科学技術情報を利用していることに非難が高まった時期である。日本の科学技術情報を英文に抄訳する研究として始まる。著者が一時期席を置くARTはそのために国70%その他30%で設立された研究機関である。しかし、これも成果は上がらず一旦規模を縮小する。すべての失敗因は「ルール式機械翻訳;RBMT;単語・文法・文構造を基本とする」にある。いかなる言語の口語・文語も規則通りに使われることはまれなのだ。これを打破せんと取り組まれたものに統計解析技法(SMT)があった。単語の間の関連(主語・動詞・形容詞など)を統計的に分析し翻訳を試みるのだが実用にはならなかった。これが発展したのが用例翻訳方式(Example-Based Machine TranslationEBMT)。しかし2015年までこの方式が注目を集めることはなかった。ブレークスルーはビッグデータとAIの組合せである。無限とも言える用例からAIが深層学習することによって、一気に実用レベルに達する。

TOEIC990点満点)の日本人平均点は531点、トップのドイツは826点、アジアで最高はフィリピンの773点、中国は533点。日本人が如何に英語を苦手とするかを示す典型例だ。米国務省で外国語学習に要する時間は;仏語ほか600時間、インドネシア語ほか900時間、ロシア語ほか1100時間に対し日本語は2000時間を要するとしている。日英語間の距離はそれほど遠いのだ。それ以上問題なのは日本における他外国語、英語以上にアジアの言語は通じない。働き手移民の増加、中国経済の発展(例えば特許件数)、圧倒的多数を占めるアジア諸国からの訪問客(インバウンド)を考えると、外国語コミュニケーションをこのまま放置していては、国力低下は必定、その打開策はAI翻訳・通訳にあると、著者は訴える。

今やAI翻訳のTOEIC点数は900点、自動翻訳の正解率は90%(これらの測定法も具体例と共に解説される)。だからと言って、(真偽不明の伝説だが)漱石が「I love you」を「今夜は月が綺麗ですね」と恋人にささやかせたような名訳(迷訳)はAIにはできない。英語教育の在り方を根源的に問い直すとともに、人とAI共存の外国語利用環境を創り上げるべきと結ぶ(優れた翻訳家・通訳はむしろ価値を高めると著者は見る)。

私の現役時代に話を戻すと、AI翻訳で仕事は片付くし、つぎ込んだ時間とカネ(会社負担)が大幅に減ずるのは確かだが、英語とそれを話す人々への関心は極めて薄いものに留まったに違いない。若い(あるいは年少)時から外国語AI依存が果たして良いのかどうか個人的には断じかねている。とは言え、外国語教育、外国語に問題意識ある方あるいはAIと外国語実務の関係に関心のある向きにはお薦めの一冊である。

 

6)危機を乗り越える力

-幾度も到来したホンダの経営危機、強力なパートナーに捨てられた直近F1プロジェクトからの巻き返しは感動的だ-

 


大学入学時学生自動車工学研究会なるサークルに参加した。自動車会社に就職することを考えていたからだ。このサークルは学内に留まらず、首都圏に在った理工系学部内にそれぞれ活動組織があり連合会を結成、紅一点のメンバー校として東京女子大も参加していた。東村山に在った通産省(現経産省)機械試験場テストコースでメーカー各社から借り受けたクルマの性能試験をやったり、夏休みには“長距離試験”と称して半分遊覧を兼ねて箱根や奥多摩に出かけたりした。しかし、主要な活動は工場見学とそこに就職している先輩たちとの交流だった。確か2年生時、まだオートバイ会社にすぎなかったホンダの狭山工場を見学した。ちょうどスーパーカブが大ヒット、新しく活気のある工場が印象的だったが、それ以上のサプライズは先輩との歓談中、突然創業者の本田宗一郎がつなぎ服で現れたことだ。話の内容は記憶にないが、数十人の学生を前にクルマ作りの楽しさを、くだけた口調で縷々語ってくれた。爾来すっかりホンダファン(と言うより宗一郎ファン)となり、所帯を持って初めて買った新車は水冷360ccエンジン搭載のホンダライフ、その次も米国で大人気になった初代アコードだった。本書はそのホンダで、数々の難題を克服した一人のエンジニアの回想録である。なお、著者・出版社はリーダー論を意図したようだが、私は技術開発物語として読んだ。

著者は1958年生れ、1981年地方の私立工業大学(機械工学)を出てホンダに就職する。当時ホンダは技術者集めに奔走しており、入社試験のために担当者が居住地まで出張面接に出かけてくるほど売り手市場だったようだ。子供の時から機械いじり好きが伝わり即採用が決まる。

この人の社内歴を節目で辿ると;1981年入社(エンジンテストベンチ屋としてスタート)→1982年~85年第2F1メンバー→1986年~1994V6エンジン開発・初代オデッセイ開発→2004年北米向け商品開発LPLLarge Project Leader;総開発責任者)→2008年軽自動車N-BOX開発LPL2013年軽担当執行役員→2014年国内向け商品開発担当執行役員→2019年第4F1パワーユニット総責任者→2023年定年退職。この節目の中で著者が体験し克服した危機が本書の骨子となる。ここでF1期数はホンダ参戦時期の順番を表す;第1期(1964年~65年)、第2期(1983年~1992年)、第3期(2000年~2008年)、第4期(2015年~2021年)。

オデッセイは国内初のミニバン、米国でファミリーバンが売れだしていたことから企画されたが、国内では商用バンのみの時代。社内でも“温泉車(旅館送迎用)”と揶揄されなかなか企画が実現しない。バブルがはじけホンダもそのあおりで不況に陥る。しかし、アコードの生産ライン活用で1994年発売すると大ヒット。危機を救うとともに“ミニバン会社”といわれるほどの代表商品になる。

第二の危機は米国一本足打法の経営形態。この中核はアコード、対抗馬はトヨタのカムリ。トヨタが6ATを採用すると5段のホンダは燃費で太刀打ちできない。直ちに6AT採用も難しい。そこでエンジンの気筒数を負荷・速度で切り替える気筒休止システム開発に挑戦。6気筒を4気筒さらには3気筒運転も可能にし、燃費改善を図りカムリに対抗できるようなる。このシステムは過去にGMやメルセデスも取り組んでいたが量産には至れなかったものだ。

ホンダ4輪への進出は、スポーツカーを除き1967年発売の初代N360が原点、しかし軽は普通車に比べて利が薄い。やがて重心は普通車優先に傾き、シェアーは軽専業2社(スズキ、ダイハツ)に遅れを取るばかりかスズキのOEM車を販売する日産にも後塵をはいするありさま。そこへ来たのが2008年秋のリーマンショック、普通車販売が激減、ホンダ存亡の危機である。そんな時命じられたのがN-BOX開発企画LPL。市場調査で注視したのは女性のニーズ、ここから「子育てに最適なクルマ」のコンセプトが生まれる。これと安全性の高いことをセールスポイントにすることを決する。軽2社との販売価格競争を勝ち抜く策として重要と考えたからだ。設計段階から安全性向上を目指し、他社がオプションとする安全装備を標準装備とする価格戦略である。女性ニーズの肝は室内空間、安全性はエンジンルームの衝撃吸収力である。両者は厳しいレギュレーション(特にサイズ)での中で本来相容れない。ここでエンジン屋の本領が発揮される。衝突時エンジンが折畳まれる構造を実現する。これで軽最大の空間が確保できたのだ。しかし、量産準備への最終段階にあった20113月東日本大震災が設計拠点である栃木研究所を襲う。急遽場所を鈴鹿工場に移し、当初計画通り2011年末発売、予想外のヒット商品となる。

201354歳、軽自動車担当執行役員、2014年には国内販売車開発統括執行役員に昇進、定年後を考え始めていたところへ、2017年突如命じられるのが第4F1テコ入れ担当。第2期(ウィリアムズ+ホンダ)、第3期(マクラーレン+ホンダ)で赫々たる戦果を挙げたF1だったが、2015年からマクラーレンと組んで参戦した第4期ではハイブリッドエンジンの不調で離縁状を突きつけられる。著者を登用したのはオデッセイ時代の部下でその時本田技術研究所社長になっていた三部(みべ)敏弘(現ホンダ社長)。モータースポーツ専業子会社HDR Sakuraに移りセンター長兼F1プロジェクトLPLとして再建を担う。捨てられたホンダがすがりついたのはレッドブルのセカンドチーム、スクーデリア・トロロッソ、何とかここで実績を挙げ、レッドブルトップチームと契約を交わすことを目指す。技術的欠陥克服に努める一方、他チーム(特にフェラーリ、メルセデス)の戦い方をつぶさに考察、対応策を講じていく。最大の弱点だったエネルギー回生装置の振動防止にはホンダジェットの力を借り、他社分析ではフェラーリが潤滑油を燃料に混入していることを見抜き、ホンダもシャブシャブの滑油を使用する(その後潤滑油の使用に規制が設けられ現在は不可)。こうして2018年シーズン第2戦でトロロッソが4位入賞、次第に成績を挙げ、翌年から2年間のレッドブル(オーストリア)との契約を勝ち取る。2019年レッドブルは3勝し、2020年満を持すが初戦では許されたホンダの制御システムをFIA(国際自動車連盟)が禁止とし3勝に甘んじる(メルセデスも不調)。やっと先が見えてきた矢先、ホンダの八郷(はちごう)社長が2022年以降のF1参戦撤退を発表、さらなる危機が襲う。しかし、著者は20214月の八郷社長退任をにらんで実績優先でプロジェクトを進める。2021年新ユニットが本格稼働し6勝(メルセデス3勝)、2022年年間最多勝15勝でコンストラクターチャンピョンとなる。こうなると社内の空気も「これでF1やめるのはもったいない」に変わり、社長交代で次期社長の判断を待つことになる。著者は20234月定年退職、ホンダ社長は彼を起用した三部が就任、2026年(新レギュレーション)からF1復帰を発表する。2023F1の結果は22戦中21勝という圧倒的な勝率(メルセデスは大不調、1勝もできず)で、2年連続のコンストラクターチャンピョン獲得となる。因みに、2026年からのパートナーは久々にF1復帰するアストン・マーチン(英)である。私としてはこの危機とその克服が本書で最も読み応えのある部分だった。

F1復権のLPLとして著者が技術以外で述べていることで印象に残ったことがいくつかある。不調時「出来ることは何でもやれ」はダメ、責任者は優先度付けを行うのが使命である。欧米人は「灰色は白」、日本人は「灰色は黒」。要はずる賢い奴が勝つ社会。先の潤滑油混入はその例。著者はそれを逆手に取る。一般に灰色域に踏み込むとき、自社の手の内を明かすようなことはしない。しかし、著者はあえてFIAに問い合わせをし、他社の灰色行為を先手で封じる。

ホンダが普通の儲かる会社に変じつつあるのを懸念しながら、「危機が人間を成長させる」「ホンダでの人生は楽しかった」と結ぶ。

 

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2024年4月3日水曜日

2024東京案内

 4月2日:春休み恒例の孫二人の東京案内(実は爺のセンチメンタルジャーニー)。ルート;神保町書店街→すずらん通り→ニコライ堂→湯島天神→アメ横→上野公園(西郷さん→花見風景→野口英世像→西洋美術館)。野口英世像の除幕式は1951年(昭和26年)春、級友たちと参加した。私が孫娘同様小学校6年生を終える歳と重なる。





 
                           







2024年3月31日日曜日

今月の本棚-188(2024年3月分)

 

<今月読んだ本>

1)諜報国家ロシア(保坂三四郎);中央公論新社(新書)

2)フランスの高校生が学んでいる哲学の教科書(シャルル・ぺパン)草思社

3)自動車の世界史(鈴木均);中央公論新社(新書)

4)第二次世界大戦の発火点(山崎雅弘);朝日新聞出版(文庫)

5)オッペンハイマー(上・中・下);(カイ・バード&マーティン・J・シャーウィン);早川書房(文庫)

 

<愚評昧説>

1)諜報国家ロシア

-ツァーもスターリンもプーチンも猜疑心で凝り固まった統治しかできない。これがロシアのDNAだ-

 


20038月、始めてロシアの土を踏んだ。既にソ連崩壊から10年以上経ていたが、先ず驚かされたのは、ホテルにチェックインしても2~3時間パスポートが返却されず、その間は外出できないことであった。これはロシア人も同じで、何処へ出かけても身分証明証(国内パスポート)をしばらくホテルに預けることになる。聴けばその地区のKGB事務所に持ち込んで一種の滞在ビザ(用件・期間・宿泊先)を添付してもらうとのこと。この申告ミスで、同行したロシア担当日本人社員が警察官に拘束される場面まで体験した。ここから導かれるロシア像は、いかなる時代も変わらぬ、猜疑心が強く、陰気な“監視社会”である。当時見聞した2006年の元KGB亡命工作員リトヴィネンコ暗殺事件から直近の反プーチン活動家ナワリヌイ氏の不可解な死まで、この国の謀略体質は何ら変わっていない。その系譜を最新情報で考察した本書を知り、読んでみることにした。

ソ連・ロシア諜報機関(政治警察を含む)でよく知られたものにはKGB(ソ連国家保安委員会)、GRU(ソ連邦軍参謀本部情報総局)、NKVD(ソ連内務人民委員部)などがあるが、これらの起源はすべて191712月に設立されたボルシェヴィキ反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会、チェーカー(Cheka)に収斂する。発足当時のチェーカーは超法規的な権限を与えられ反革命分子摘発・処刑に中心的な役割を果たす。初代長官はポーランド出自のフェリックス・ジェルジンスキー。レーニンは非情な性格を持つ彼を「断固たるプロレタリア的ジャコバン」として登用、KGB本部前広場にその名を残す伝説的人物である。彼の影響力は大きく、192030年代吹き荒れたスターリン大粛清も後継者たちが実行部隊として行動している。チェーカーそのものは早くに改組されているが、1世紀を経た今でも保安・諜報関係者は“チェキスト”と呼ばれるように、それはこの国にとり特別な存在なのである。そしてプーチンは典型的なチェキストなのだ。

KGB設立は1954年だが、その前身(NKVDGRU)の国家統治機構内位置付けが、これを特徴づける。形式的には内務委員会(内務省)の下部組織のように見えるが、実質は政治局(中央委員会特定幹部十数名)の直轄、政府の上に在って省庁幹部の監視まで行う。政治警察・海外諜報の他、国境警備・消防・刑務所・強制労働収容所管理など多様な業務を行う巨大組織が、極秘内規以外規制する法律も無く70年以上権力を保持し、いくつか分割されたとはいえ、現存のSVR(対外諜報庁)がそれを引き継いでいるのが実状なのだ。

本書の読みどころの一つは、ソ連崩壊後エリツィン大統領下の混乱を経ながらKGBが生き残り、プーチン政権下で着々とその権力を回復・強化して、多様な謀略で旧ソ連邦復活(ウクライナ侵攻もその一つ)を目論む姿を露わにして見せるところにある。そのカギは人材にある。KGBの将校は“現役予備”制度の下、省庁(外務省を含む)・通信社/新聞社・大学・企業・国営航空会社(アエロフロート)・国営旅行社(インツーリスト)などに送り込まれ、枢要なポストに就き、派遣先職員と同等の力を発揮できるほど優秀なのだ。例えばプーチン、東独勤務のあとはレニングラード大学で国際交流担当職員となり外国人留学生管理に当たりながら、レニングラード大学のみならず市政府の監視などにも行い、にらみを利かせてきたことが、のちのチャンスにつながっている。

このような歴史や組織解説に留まらず、対外諜報(特にアクティヴメジャーズと言われる敵対国家・組織・人物を貶める活動)、偽情報操作、影響力のあるエージェント確保(ソ連通、ロシア通を自認する人々が、人脈・情報を餌に知らぬ間に隠れエージェントにされている可能性がある;古いところでは自民党幹部石田博英、近くでは佐藤優)、姿を秘したフロント組織、政治技術とメディアの関係、サイバー戦最前線、ロシア正教と政治など、多様な戦術・手法を解説する。そして終章近く「果たして諜報国家ロシアは変わるだろうか?」と踏み込み、スターリンの死やソ連崩壊のあと、いっとき雪解けムードが漂うこともあったが、いずれも西側のはかない夢に終わっている事実をあげ、プーチンが不死身でないのは確かだが「期待は禁物」と結ぶ。なにしろチェーカー組織は100年変わっていないのだからと。

ウクライナ侵攻はプーチン、そしてロシアの下心を明らかにした。その根幹を支えているのはチェキスト思想、その由来と現状を学ぶに適した一冊。ロシア語を含めた参考文献多数、2023年度山本七平賞(人文科学・社会科学学術書・論文対象)受賞もうなずける。

著者は1979年生れ。大学でロシア語を学んでいる間ロシアに1年留学、その後もロシア、タジキスタン、ウクライナなどの大使館勤務(研究員・専門官)。現在は複数の海外大学・研究機関研究員とある。専門はソ連・ロシアのインテリジェンス。

 

2)フランスの高校生が学んでいる哲学の教科書

-多岐多様な専門分野を学ぶ前に、考え方の基本を学ぶ。これが哲学教育の目的と思っていたが暗記物が実態らしい-

 


♪デカンショ、デカンショで半年暮らす、アヨイヨイ、あとの半年寝て暮らす。ヨーオイ、ヨーオイ、デッカンショ♪で始まるデカンショ節、本来は丹波篠山地方の盆踊り歌だったが、旧制高校生の学生歌として愛唱されるようになる。篠山節ではデカンショの部分はデコンショだが、これを第一高等学校生が哲学の授業でしばしば登場するカルト・カント・ショウペンハウエルにちなんで“デカンショ”と改変したとの説が一般的になっている。旧制高等学校の学制はドイツのギムナジウムとフランスのリセに倣って制定され、そこでは哲学が必須科目だったことから、文・理・医いずれの課程でも哲学修得が必須となったのだ。

新制になり我が国では教養課程の一選択科目にすぎなくなったが、フランスでは高校修了兼大学入学資格(バカロレア)として哲学は依然必須科目となっている(現ドイツの同資格HZBでは不要)。大学入学当時デカルトやカントの名前くらいは知ってはいたものの、哲学など何を学ぶのかさえ理解できず選択しなかったが、後年数学者の伝記を読むうちに、研究対象とする数学世界を想定していくのに哲学が重要であることを教えられた。この際フランスの高校生になって哲学に触れてみよう。そんな動機で本書を求めた。

この手の、内容が予想できない本を紐解くときは、あとがきや解説から読むことにしている。そこでびっくり。訳者あとがきに依れば、2010年に刊行された本書の原題は「これは哲学の教科書ではない」というもので、その一部を再編集して「バカロレア哲学試験合格術」と銘打った受験参考書に編み直したものだとある。ギリシャ来の哲人たちの考えを要約したものと思ったが、見当違いだった。しかし、それはそれで面白く、フランス高校生の哲学学習要領や受験問題の一端に触れ、予想もしない世界を垣間見ることが出来た。

高校における哲学学習の目的は「現実の複雑さを熟知し、現代社会に対する批判意識を働かせることのできる自律精神を育てること」とのある(指導要領)。従って、学習内容は哲学史や哲学者たちの主張を網羅的に学ぶのではなく、批判的に思考し、明晰に表現する方法を習得することに力点が置かれる。

試験は二つの形式で問われる。①ディセルタシオン(小論文)、②テクスト説明(15~20行の著作からの抜粋問題文に対して、著者がどのような哲学的問題を扱い、どのような答えを提示しているかを“自分の意見を交えず”論述する)。因みに、2023年の試験問題は、1)幸福は理性の問題か?2)平和を望むことは正義を望むことか?3)レヴィ・ストロース(フランスの人類学者・民族学者)「野生の思考」(1962年)の一節を説明せよ。1)、2)は①、3)は②の形式の問題。受験生はこの内一問を選択して回答する。試験時間は4時間。

本書は、①主体(認識や行為を行う存在)、②文化、③理性と現実、④政治、⑤道徳、の5章立て、それぞれに思考対象となる観念がいくつか取り上げられる。①では;意識、知覚、無意識、他者、欲望など、②では;言語、芸術、労働と技術、宗教、歴史、③では;理論と経験、証明、解釈、物質と精神、真理など、④では;社会、正義と法、国家、⑤では;自由、義務、幸福、がそれらだ。そして、この個別観念毎に哲学者たちの考え方を解説していく。例えば、①における主体認識では、「私」は「自己規定」であり、「他者」の存在は無関係と見えるが、一方で「他者」が在ってこそ「私」が意識できることもある。前者の代表例はデカルトの「われ思う。ゆえにわれあり」、後者はヘーゲルの「相互主観性」、ここから「知覚」「無意識」「欲望」「時間」などとの関わりを、哲人たちの諸説を援用しながら展開していく。観念の解説が終わると、複数の分かり易い質問(演習問題)と回答例で学んだことを応用する。例えば、「本当になりたいものは何か、どうすればわかるのか」に対して、「内省や論理的な考察にとらわれ過ぎず、先ず行動を起こすこと」とデカルト、サルトル、ヘーゲル、アランなどの言説を援用しながら回答を示す。この観念各論と問答の部分が本書の核となるわけだが、これに続く50ページにわたる“キーワード解説”が何気なく使っている言葉に対して、認識を新たにしてくれた。一部例示すると;絶対と相対、抽象と具象、分析と総括、説明と理解、同一・平等・差異、理想と現実、など。普段深く考えず使っているが、これらを(教えたれた通り)正確に使いこなせないと良い点は取れないのだ。

全体として受験対策書ではあるが、哲学に無知な人間には体系だった硬い入門書より読みやすく、手元に置いておこうという気になっている。しかし、解説などを読むと論文形式にも拘らず、回答に私見は禁物、定型的な考え方・書き方を求められ、“暗記物”との批判が強く、必須科目であることの是非が問われているらしい。

著者は1973年生れ、パリ政治学院卒、哲学の教授資格を持ち一般市民向けの哲学講座や執筆活動を行っている。既刊邦訳に「フランスの高校生が学んでいる10人の哲学者」がある。

 

3)自動車の世界史

-自動車産業を階層でとらえ、そこから国力を推し量る、ユニークな「自動車は国家なり」論-

 


コロナ禍で中断していたクラス会が久々に今秋開催される。1962年(昭和37年)の卒業だから今年は62年目、歳は84~6歳といったところ、おそらく今回が最後となるだろう。我々が就職活動をした時期は岩戸景気(この後オリンピック景気がつづく)の真っただ中、つぶしが効くといわれた機械科出身者は引く手あまた、鉄鋼/非鉄金属・重工(ボイラー/タービン、プラント機器など)・造船・総合電機・精密機械・工作機械・建設機械・鉄道車両・電力/ガス・化学/石油・総合商社と多様な企業でスタートを切った。中でも多かったのが部品(ベアリング、タイヤなど)を含む自動車関連、十数名がこの業界に就職している。当時の自動車工業はトラックを主力製品とする内需専業に近かったが、今やトヨタをはじめ、世界で戦う巨大企業に変貌し昔日の感、これは自らの体験でもある。

私がゼミ・卒論で専攻したのは制御工学。卒論のテーマは“ガソリンエンジンの回転数制御”である。この時使用したエンジンは、助教授が日産からもらい請けてきた、英国オースチン社製A201500ccエンジン、10年前A20国産化のために導入し、さんざんテストした上で廃棄処分となったものである。メートル法(量産用日産製)とヤードポンド法(英国製)の違いもあり、この動かぬエンジンを生き返らせるのに往生した。既に日産はダットサン用1000ccエンジン、トヨタはクラウン用1500ccエンジンを自社開発していたが、他社も含め乗用車用小型ガソリンエンジンは欧米に大きく後れを取っていたのが実状だった。

第二の“昔日の感”は自動車制御システムの驚異的な発展である。卒論研究はエンジンのトルクと回転数を計測し使用状況(負荷変動)に応じたエンジン最適制御を行うことを最終目的(数年にわたる)としたが、初年度の測定装置と負荷変動装置だけでも床面設置で小型車並みの大きさ、車載などまったく出来るようなものではなかった。しかし、今ではエンジンを含むパワートレイン系制御のみならず車両制御系(緩衝装置・制動装置)、車体制御系(エアバッグ、前方・後方監視、防眩)、情報通信系(GPS、カーナビ、エンタテイメント)の電子制御システムが車載となり、さらに自動運転領域まで踏み込んでいる。一方で、62年遡った1900年はと歴史を振り返ると、ダイムラーとベンツに依る自動車量産が始まり、ロールスロイス創立は1906年、T型フォードの発売は1908年、当に自動車黎明期である。“62”をキーワードに最後のクラス会を少しでも盛り上げる材料になればと本書を手にした。

何とも月並みな題名である。自動車の歴史を著した本は汗牛充棟、今さらの感があり昨秋出版されたことは知っていたが、購入しようとの気は起こらなかった。たまたま、文庫・新書の手持ちが少なくなったとき、立ち寄った書店でパラパラっと目を通して「これは!」と思った。モータージャーナリストや産業史の学者の書いたものは、自動車そのものかせいぜい自動車会社の歴史を辿るものが多いのだが、これは自動車を通じて国の盛衰を語るものだったからである。書き出しこそ、自動車の発明者ゴッドフリー・ダイムラーとカール・ベンツ(いずれも独)から始まるものの、仏、英、米と進みその間、伊、スウェーデン、チェコ、ソ連(ロシア)などにも触れ、戦後のハイライトは日本とドイツ。東独や韓国を一瞥した後、今や世界一の自動車大国中国に至る120年余である。

著者の独創は35層構造の国別自動車産業序列、1945年以降これを10年単位で表現するところにある。第1層(T1国);独自の自動車ブランドが複数あり、その開発と生産・輸出、進出先で現地生産を行っている国。第2層(準T1);T1国にない部品を開発・供給出来、あるいは少数ながら先駆的な自動車を開発・生産・輸出している国。第3層(T2国);自動車生産国であり、自国ブランドもあり、先進国メーカーのノックダウンやOEMも引き受けるが、T1および準T1のような先端技術開発には弱い国、ここは先進国向けの輸出も少ない。第4層(T3国);自国で自動車を生産していない国々。その中で産油国のように自動車と関わりが深く、高級車のお得意様である国。第5層(T4国);富の蓄積が少なく、専ら中古車輸入に頼る国。1945年のT1は米・英・仏のみ、T2は伊・ソ・チェコ、T3は日独(生産停止)、中東産油国、T4が途上国となる。これが1973年になると、T1は米・日・西独・英・仏・伊・スウェーデンと変わり、2000年では、これに韓国が加わる。最終評価の2022年は前記以外に中国を加えているが?マーク付き。この?マークは2009年中国の生産台数が米国を抜いたとはいえその原動力は海外メーカーにあり、直近に至るもエンジンや部品の基本技術はT1依存が続いているためである(EVは別だが)。違和感を覚えたのは、今や自国資本のメーカーが存在しない英国が依然T1の座にあることだが、これはロールスロイス(BMW)、ベントレー(フォルクスワーゲン)、ジャガー(印度タタ)などは依然として英国内で生産されており、英国製ゆえにブランド力が落ちていないこと、F1を始めレーシングカーの拠点がほとんどここに在ること、を評価しているからだ。

本書に底通するのは「自動車は国家なり」、日本車世界市場展開をこの観点から見つめ、欧米の狡猾な日本車排除の動きを詳らかにする。口火を切るのはサッチャー政権の英国(市場の11%)、これに米(168万台/年)・独(10%)・仏(3%)・伊(1千台/年!)がつづく。GATT(現WTO)違反にもかかわらず、これを飲まされてきたのだ(現在は現地生産もあり一応撤廃されているがEV化の流れの中で、別の形で制約が出てきている)。

登場するメーカーは、消滅したものも含めほとんど網羅、約180の車名・車種と併せてその消長を手短に語る、確かに正真正銘の“自動車の世界史”と呼べる内容であった。

著者は1974年生れ、政治学専攻で新潟県立大学国際地域学部准教授、外務省経済局経済連携課勤務などを経て、合同会社未来モビリT研究主宰。本来の教育・研究バックグラウンドは自動車と深く関わっていないが、典型的な自動車オタクと見る。

 

4)第二次世界大戦の発火点

-大国に翻弄されたポーランド、ウクライナ侵攻理解ばかりでなく、我が国安全保障にも学ぶこと多々あり-

 


19391月生まれである。誕生地満洲では6月から9月にかけてノモンハン事件が起こり、それと重なるように第二次世界大戦が91日勃発する。無論赤子ゆえそんなことは知る由もないが、歴史に残る年だけに、成長するにしたがいあの戦争と自分の関わりを考えるようになってきた。日清戦争・日露戦争で得た利権を拡大、満洲国を設立したことは、独ソ密約でソ連がバルト三国を連邦に組み込みロシア人を送り込むのと同じ。ソ連崩壊で彼らが国民としての権利を奪われ、生来の地を離れロシア本国へ移住することが、満洲から追い払われた我々家族と重なる。異なるのは国境だ。陸続きの国には民族のグレイゾーンがあり、些細なことが動機となって、紛争・戦争に発展してしまう。プーチンのウクライナ侵攻はその典型。この動きは第二次世界大戦前の東欧事情と酷似する。ナチスドイツによる1938年のズデーテン地方併合とそれに続くチェコスロバキア全体の制圧がその例だ。ポーランド侵攻前後の東欧全体の軍事・外交を知ることが、ウクライナさらには旧ソ連圏のこれからを見通す材料になることを期待して本書を読むことにした。

本書の内容は近現代ポーランド史とも言えるもので、三次にわたるプロイセン・オーストリア・ロシアによる分割(1772年~1775年)の前史から第一次世界大戦の戦後処理(ヴェルサイユ条約;1919年)によるポーランド共和国独立承認までが導入部。国は認められたものの、安定した政体が出来る間には親露派、反露派の主導権争いがあり、国境線画定にも時間を要する。東部国境は1920年対ソ戦争(ウクライナと同盟)で確定(暫定の英カーゾン外相案より東へ広がり、現在のベラルーシ、ウクライナの西部を含む。これは第二次世界大戦後ソ連に取り上げられ、現在の国境となる)、他の部分は隣接国との個別交渉や国際連盟の調停案で固めていくことになる。また、ナチスドイツが失地回復する過程でそれに便乗して領土拡大を図った部分もあるのだ。そして最後に残るのがダンツィヒ。ここは旧東プロイセンの一角であり住民の90%はドイツ人だったが、ポーランドにとっては唯一の海との出入り口、独・ポの折り合いはつかず、国際連盟委任地域となって、複雑な統治が行われている。ズデーテン地方を始め着々と旧ドイツ帝国領を取り戻してきたナチスドイツは193810月、秘密裏に8項目から成るダンツィヒ問題解決案をポーランドに提示する。これまでの独・ポ関係は良好で1934年には不可侵条約も締結しているが、これが独ポ関係の転換点となる。この案の4項目はダンツィヒにおける独利権の回復、これに不可侵条約の期限延長(10年→25年)、日独伊防共協定への参加、国境線保全、付帯事項の4項目が加わる。民族自決の原則に基づけばダンツィヒの独復帰は自然な流れだが、苦難の歴史を経てやっと独立を成し遂げたポーランドにとって、そのまま認められるものではない。ユゼフ・ベック外相は国民だけでなく政府にもこの提案を明かさず、落としどころを探る道を選ぶ。実は当時のポーランド国内政治は枢軸国に近く、伊のエチオピア侵略支持や満洲国承認などにより、英仏とは疎遠になっていたが、この提案を契機に外交政策転換を模索し始める。それぞれの国への対応は、独は敵に転じ、英仏とは関係改善強化へ。そして、ここにもう一つのプレイヤーソ連が加わる。時間差はあるが、仏との相互援助条約は1920年、ソ連との相互不可侵条約は1932年、独との不可侵条約は1934年に結び、必死に生き残り策を講じてきたポーランドだが、独はダンツィヒ問題解決策に答えないポーランドに19394月不可侵条約破棄を通告する。そして世界に衝撃を与える独ソ不可侵条約が1939823日発表されと、それまで態度を曖昧にしてきた英国が同月25日ポーランドと相互援助条約が結ぶことになる。ここに至る各国の国益むき出しの、疑心暗鬼と虚々実々の駆け引きこそ本書の読みどころ。ヒトラーが西へ向かわぬことを願う英仏、あわよくば革命後の戦争で失った領土を取り戻したいソ連。ナチスドイツを抑え込みたいのは英仏ソさらにポーランドの共通関心事だが、どの国も他国を信用していない。そこをしっかり読んでいるヒトラー。見事にポーランド電撃戦は成功する。

準備万端だった独軍の侵攻スピードは驚異的、917日には政府が、18日には軍司令部がルーマニアを経て亡命、ソ連はポーランド国内のベラルーシ人・ウクライナ人保護を名目に18日独との秘密協定線に向かって西進、10月初め両国によるポーランド分割統治が始まる。この間、同盟国英仏は93日対独宣戦布告したものの傍観を決め込む。1941622日独ソ戦開始、東部ポーランドも制した独は全土を総統領として統治、ユダヤ系ポーランド人の絶滅が本格化する。パリ、ロンドンと移る亡命政府の下西側連合国に組み込まれる部隊、ソ連軍と行動を伴にする者、国内に留まりゲリラ戦を展開するグループ、それぞれの立場で対独戦を戦う。連合軍の勝利が見えてくると米英対ソ連の対決が顕在化、亡命政府に対抗するソ連派が台頭し、欧州の戦いが終わると一見民主的な手続きを経たように見せながら共産党政権が誕生、旧国境は全体に西に移動し、東部はベラルーシ、ウクライナの一部となり今日に至る。今次のロシアによるウクライナ侵攻に対して、ポーランドが分不相応とも思える支援を行っているのは、このような歴史的背景からきているのだ。

著者は1967年生れ、既に本欄で「第二次世界大戦秘史」「太平洋戦争秘史」の2冊を紹介している。著者紹介には戦史・紛争史研究家とあるが、ノンフィクション作家、ジャーナリスト、学者いずれとも知れぬ人物。しかし、着眼点はいずれもユニークで、情報に新鮮味がある。利権・覇権争いが激化する今日の世界を見るとき、(核はともかく)片務的な日米安保だけに頼ってはならないと痛感させられた。自衛力強化(ポーランドはこれを怠った)、情報収集分析力(これも弱かった)、信頼される広義の外交力(英仏、独双方から疑われていた)が欠かせないと。

 

5)オッペンハイマー

-「原爆の父」と称賛された物理学者、原爆国際管理・水爆開発反対を訴えたことから赤狩り犠牲者に貶められる-

 


日本は唯一の原爆被爆国、福島原発事故もあり原子力利用に関してはネガティヴな風潮が今に続く。しかし、我々の高校生時代は1954年出版の「ついに太陽をとらえた-原子力は人類を幸福にするか-」が級友間で回し読みされ、1955年「原子力基本法」制定を記念して日比谷公園で「原子力博覧会」が開催されるなど、明るい話題に満ちていた時代もあったのだ。そんな時期の報道に「オッペンハイマー・ソ連スパイ事件」がある。「原爆の父」と称せられ、米原子力委員会顧問を務めていたオッペンハイマー博士がソ連と通じているとの疑惑、折からのマッカーシー旋風に煽られて大々的に報じられた。本書はそのロバート・オッペンハイマーの生涯を描く伝記、原著は大判のハードカバーで700頁を超え、訳本も文庫本ながら上・中・下3巻計1300頁近い大作である。そして今年度アカデミー作品賞・監督賞・主演男優賞などを受賞した映画「オッペンハイマー」の原作でもある。著書入手は発刊直後の2月初め、大冊ゆえにゆっくり読もうと思っていたが、映画の本邦公開が3月末と知り、それ以前にと急遽読破した。

巻頭にある“著者覚え書き”を読んで驚かされる。オッペンハイマー家ゆかりの地ニューメキシコ・ロスピノス牧場(戦前から広大な牧場を所有、そこに別荘を建て、現在は長男ピーターが住んでいる)を著者が訪れたのは1979年、著者も編集者も4~5年でこの伝記を完成させるつもりだったが、実際には四半世紀かかり、原著出版が2005年になったとある。数多くの伝記を読んできたが、連続小説でもない限り、こんな長期を要する著書に遭遇していない。100人以上の人にインタヴュー、海外調査も行い、読んだFBIの公開資料だけでも3千頁を超えると作品とのこと。読み終わりホッとしたのが率直なところだ。


ロバート・オッペンハイマーの
62年の生涯を、誕生から死まで丹念にたどるが、ヤマ場は二つに絞られる。第一の山は原爆完成・投下まで。第二は1954年の“ソ連スパイ説”に関わる原子力委員会聴聞会顛末である。

ロバート・オッペンハイマーはドイツ系ユダヤ人二世として1904年ニューヨークで誕生する。父は布地商として成功しており、極めて豊かな経済環境の下、ユダヤ人向け「倫理文化学園」で小中高と学びハーバード大学に入学、ここを最短の3年で首席卒業、化学の学士号取得する。ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所を経てドイツのゲッチンゲン大学に移り、9カ月の間に7本の論文を書き上げ、192723歳の若さで博士号を取得する。帰国後カリフォルニア工科大学とカリフォルニア大学バークレー校を掛け持ち、特にバークレー放射線研究所(サイクロトロン加速器を備える量子物理学最先端研究所)で研究実績をあげる。やがて第二次世界大戦勃発、アインシュタインらがナチスドイツ原爆開発に警鐘を鳴らし、米国の原爆開発計画“マンハッタン計画”が立ち上がる。プロジェクトリーダーは米陸軍のグローブス将軍(最終中将)、彼に依って弱冠39歳のロバートが学者グループを率いる“急速爆発コーディネータ(中央研究所長)”に抜擢され、ニューメキシコ州ロス・アラモス研究所の研究開発管理を任される。

ただ、ここまで至る過程で共産主義・共産党との関わりがちらついてくる。8歳下の弟フランク(物理学者)、婚約者ジーン(のちに解消)、そして妻キティがいずれも一時期党に席を置いているのだ。彼自身は科学者の労働組合活動に関わった程度だが、学者仲間にもシンパが何人もいる。このような事情からFBIが彼の身辺調査を進めており、新任務不適と軍に警告するが、グローブスは一存でQ(最高機密接触許可)資格を与える。以降ロバートは原爆開発に邁進、194586日の広島投下、9日長崎投下を成功させ、第二次世界大戦終結、「原爆の父」と称賛され全米に知られる英雄となる。

第二のヤマ場の発端は、終戦直後広島に赴いた調査団から聞かされた惨状、自責の念にかられた言動や水爆開発阻止への動きが、政治家(大統領を含む)・軍の不興を買う。知名度が高いだけに政治的影響力が大きいことを危惧してのことだ。冷戦の進行で核兵器を科学の段階から国際政治の手段に変じたことを充分理解していなかったことが災厄をもたらす。

著名人となった彼の次のポストは、アインシュタインも在籍するプリンストン高等研究所(設立動機は大学への寄付だが、プリンストン大学と直接関係無し)所長。理事の一人ルイス・ストローズが彼を推してのことだ。ストローズ(ドイツ読みではシュトラウス)はロバート同様ドイツ系ユダヤ人の出自、高校を出ると靴のセールスから身を起こしウォール街で成功、財力でより高い名誉職獲得を目指す野心家、共和党大統領候補アイゼンハワーの強力なスポンサーでもある。ロバートが所長職を提示された際、友人との電話で「多少知ってはいる。たいして教養がある男ではないが、邪魔にはならないだろう」と交わした話がFBIの盗聴記録に残されるのだ。後日これをFBIから知らされたストローズは激怒、復讐の念にかられる。

1953年末ストローズは米国原子力委員会(AEC)理事を務め、その下部組織である一般諮問委員会(GAC)の議長はロバート。赤狩りが吹き荒れる中大統領執務室でロバートの処遇に関するトップ会議が持たれる。メンバーは、アイゼンハワー大統領、ニクソン副大統領、アレン・ダレスCIA長官、二人の大統領補佐官、それにストローズである。結論はストローズ提案の「保安許可の不服審査を行う委員会設置」。1223日付でAEC告発状が送りつけられ、これに対するロバート側の反論書を待って、19544月中旬から約1カ月にわたる「AEC人事保安調査委員会」聴聞会(非公開)が開かれ、5月末ロバートのQ資格取消が決する。ここ至るまで、ストローズは、FBIの協力取付け(フーバー―長官もロバートを嫌悪している)、AEC理事の抱き込み工作、情報開示制限など病的なほど陰険な手段を尽くしてロバートを追い詰めていく。二つのヤマ場と書いたが、読み応えは圧倒的に後者、本書はこの事件のために書かれたのではないかとの感さえしてくる。


後日談;アイゼンハワー政権末期ストローズは商務長官に推されるが上院で否決され野望は此処で挫折する。ロバートはすべての公職から去るものの高等研究所長には留まり、ケネディ政権で米国科学者に与えられる最高の賞、フェルミ賞受賞者として名誉回復。だが授賞式直前ケネディが暗殺され、ジョンソン大統領からその賞が渡される。1967217日喉頭がんで死去(享年62歳)。

人格形成・変化(内省的で友人も少なかった若者が多数の科学者・技術者を率いるまで)、学問上の業績(評価が高いものは1930年代で終わっている)、著名科学者(アインシュタイン、ニール・ボーア、フォン・ノイマン、P.M.S.ブラケットなど)との交流、日本投下の要否(不要派)、政治家・政府高官の評価(著名人ゆえ要職に就けるが、トルーマン、アイゼンハワー両大統領ともに冷淡)、ソ連の原爆諜報活動、家族との生活(妻キティにとってロバートは3度目の結婚相手。初婚相手はスペイン市民戦争で戦死す共産党員。妻としてはロバートを良く支えていくが子育ては不得手、長男ピーターとは心が通わない。長女トニー(愛称)への愛も一方的、二度結婚するが最後は自死する)、友人知人関係(特に親密だった女性)など、全方位的にオッペンハイマー像を描く盛り沢山な内容。ピューリッツァ賞受賞は納得だが、深耕されないのが原爆開発に関する科学技術上の難題解決と彼の役割である。全く触れないわけではないが、期待していただけに“画龍点睛を欠く”の感が残った。膨大なボリュームと多岐にわたる話題を3時間で如何に描くか、映画鑑賞はそこに注目したい。

著者は二人、マーティン・J・シャーウィンは1937年生れ、タフツ大学歴史学教授の経歴もある歴史家、2021年没。カイ・バードは1951年生まれの歴史家・ジャーナリスト、あとから本書執筆に加わったようである。

 

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