2009年8月28日金曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(18)

18.恋人の評価 11月初旬待望の車が納車された。担当セールスから「2000kmまではエンジン回転数3000rpmを超えないようにしてください」と注意をうけた。どんな運転をしたかは車載コンピュータに記憶されるのだと言う。これでは最大トルク領域4600~6000rpm、レッドゾーン7200rpm以上であるエンジンの力を楽しむことが出来ない、2ヶ月以上トロトロ運転で過ごさねばならないと、些かがっかりした。しかし、乗ってみると3000rpm・5速で120kmは軽く出てしまう。三浦半島や東名、箱根を舞台の慣らし運転を結構楽しむことが出来た。年を越す頃には2000km突破、やっと制約が解ける。伊豆半島や富士五湖へ足を延ばし、7月には新潟・信州を回る2泊のグランドツーリングを楽しんだ。高速道路あり山道ありのコースは、あらゆる局面(燃費を含めて)で期待以上のものだった。これが終わったとき、走行距離は5000kmを越えており、この車の特徴を体得し自分なりの楽しみ方が出来上がってきていた。
 そんな8月のある日、秋に予定していたイタリア旅行の相談のため、大学時代の親友、MTに会った(本報告-2“友の死”に登場)。食事中の会話の中で車の話しになり「今度のボクスターは素晴らしい」と自慢すると「何が?」と彼が尋ねてきた。予期せぬ質問に一瞬絶句してしまった。自分にとっては“全てが良い”のだがこれでは答えにならない。熱烈な恋をしている相手をどう第三者に説明して良いのか分からないのと同じである。いっとき間をおいて考えたことは、一つは自分が今まで所有した車との比較、もう一つは彼が「これはチョッと良い車なんだ」とアトランタ近郊を案内してくれながら語った記憶である。
 アメリカ駐在の長かった彼に彼の地で初めて会ったのは、1982年の9月下旬シカゴだった。私はその時エクソンのエンジニアリング・センター(NJ)に出かけその後シカゴで用事があった。アトランタに仕事場も家庭もある彼と会うことは無いが、一言電話でもと思い自宅に電話したところ、夫人が出て「主人は今シカゴに出張中なの、連絡先をお教えするから電話してみて」と言うことで、偶然シカゴで会うことができ、「初花」と言う日本レストランでご馳走になった。このとき聞いた、異国で仕事をすることの難しさ・覚悟は今でもよく憶えている。「最低5年は居続けなければモノにならない」と。
 二度目に彼に会ったのは1996年11月アトランタで開かれたアメリカ石油学会(NPRA)のコンピュータ関連会議に参加した時である。当時彼はアメリカ2度目の駐在でアトランタ交響楽団の会員になるほどアメリカ社会に溶け込んでいた。会議が始まる前に提携先のソフト会社への表敬訪問もあり、少し早くアトランタに乗り込み、彼等夫妻に土日を利用して市内・近郊を案内してもらった。名前は忘れたが、フラワーガーデンで有名なゴルフクラブでの昼食やルーズヴェルトが息を引き取った、ウォーム・スプリングズのリトル・ホワイトハウスを訪ねたことは忘れ得ぬ思い出でだ。このドライブの最中彼がつぶやいたのが、先の「これはチョッと良い車なんだ」である。
 この時の車はトヨタ・カムリ、いまでこそ日本でも知られているが、この時はアメリカ仕様が出たばかり、私は初めて耳にする名前だった。当時の日本車と同じようなサイズだがエンジン容量は3Lもあり、軽い車重と相俟って加速時や長距離高速運転に余裕があり、アメリカの5L級の車と遜色ない走りが出来るという。この余裕が彼の評価する「チョッと良い」点なのだ。アメリカと言う、車が日常生活の中で欠かせない社会における、普通の人(彼は自動車そのものや運転を楽しむタイプの、カー・マニアではない)の評価と言って良い。その彼が発した「何が?」に簡単に答えることは容易ではない。
 老若男女共通する車の評価は何と言っても「カッコ良い!」がまず第一番。これは大切なことだが、今の日本車には全く感じられない。この点では何と言ってもイタリア車だろう。ボクスターを含めてポルシェのデザインはシンプルで飽きは来ないが、「カッコ良い!」車ではない。
 スピード、加速力(停止状態から400mを何秒で走るかのような)も車の性能を表す代表的な数値である。この点ではボクスターもなかなかのもの(最高速度258km/h)だが、一般道路で確かめられるようなものではない。これも答えにはならない。
 結局、私が評価しているのは、カーブでの高速安定性や、高速道路での瞬発力、ブレーキ性能、緩急をつけた運転時での乗り心地なのだが、これはある程度それなりの運転をして初めて分かるものだし、場所を選ぶ。それを楽しめ、確かめられるのは、私設有料道路で交通量も少ない箱根ターンパイクやドライビング・スクールでの走行になる。したがって、その時彼の質問に的確に答えられなかったわけである。
 惚れた女性は残念ながら(?)良妻賢母の基準では計れないのだ。

(写真は2枚とも富士スピードウェイ・ショートサーキットにて。ダブルクリックすると拡大します

2009年8月25日火曜日

決断科学ノート-16(沿岸防空軍団長の怒り)

 シーレーンの守りは英国の生命線である。これは海軍と空軍の共同作戦域でもある。現在“OR生みの親”と称せられる、ブラケットはマンチェスター大学教授のまま軍の各種の委員会メンバーやアドバイザーを務めていた。最初は空軍省の防空科学委員会、次いで航空科学研究所、陸軍の対空砲軍団、更に空軍の沿岸防空軍団の顧問を務め、その後海軍省の科学顧問に転じ、対潜作戦や護送船団作戦に数理応用を鋭意進めていく。
 これらの仕事の内、沿岸防空軍団時代から海軍省に移動した初期の時代はほとんどシーレーン確保のための数理手法開発(そのための人材育成・体制作りを含む)に傾注し、現場から高く評価されている。それらは、航空爆雷の起爆深度設定、Uボートによる哨戒・爆撃機発見を遅らせる塗装色、Uボートと共同作戦をとる長距離哨戒機、フォッケウルフ(FW)-200攻撃のための複座戦闘機の運用問題、新兵器導入における不確実性の解析など多彩なもので、これらの相乗効果が着実に商船の被害を減じていき、ついに彼のグループは海軍軍令部副部長直轄組織にまでになる。
 他国の軍隊ではとかく縄張り争いが目立つ、空軍と海軍の協調も理想的になっていく。それは空軍の三つの実戦部隊(他の二つは、戦闘機軍団と爆撃機軍団)の一つである沿岸防空軍団の日常指揮を海軍に移し、両軍の連帯責任の下で運用する形にしている。一般に強力な上位課題が在る時、対立する組織はその行動基準を変え協力する(旧帝国陸海軍や現在の中央官庁はそれでも変えない?)。それほどUボートの脅威が凄まじかったともいえる。
 この様に、一見順調に進んでいるように見えた対Uボート作戦だが、まだ安心は出来ない。戦争内閣の対潜水艦委員会(2週間に1回、首相官邸で開催)は海軍に更なる強化策について報告を求める。海軍省はこれをブラケットに命じたため、作られた報告書がブラッケトとその時の沿岸防空軍団長、スレッサー中将との激しい論争を呼ぶことになる。報告書の内容とまとめ方に問題があった。
 その内容は、190機の重爆撃機を爆撃機軍団から沿岸防空軍団に回すことを提言するものであった。これは長年、何度も論じられてきた空軍存立の理念に関わる問題に波及する、単なる資源配分問題では無く、高度に政治的な火種なのだ。バトル・オブ・ブリテンを辛うじて耐え、本来の役割である“守りよりも攻撃”に転じた空軍では「一機でも多くの爆撃機をドイツ都市爆撃に!」が日々の合言葉である。スレッサーも空軍の本流に在る人。「爆撃機の転用など全く必要ない!兵器の要否を決めるのは自分だ!」と提言を支持しない。
 ブラケットにしてみれば、英国が戦い続けられるかどうかシーレーンの確保にある。これ以上の上位課題は無いとの認識だし、海軍から命じられた仕事ゆえスレッサー(空軍)に相談することでもないと考えていた(空軍に根回しが必要ならば海軍のしかるべきラインですべき)。スレッサーは一言も相談に与らなかったことにも腹が立った。「沿岸防空軍団は最もOR利用に理解があった組織なのに!」と怒りをぶちまける。「科学者も使い方を誤ると無価値だ!戦略は計算尺(スライド・ルール)で作るものではない!」
 戦後二人はこのことに関して言葉を残している。スレッサーは「空軍OR公史」の中でORが今次の大戦で極めて有効な武器であったと賞賛しつつ、あの時の怒りの言葉「戦略は計算尺(スライド・ルール)で作るものではない」を締めくくりとしている。
 一方のブラケットは、「空軍の指導者がORグループによって整えられた“統計・計算”という突っつき棒で小突かれのた打ち回り、あげく“戦争は兵器で勝つもので、計算尺ではない”と吼えていたのを憶えている。しかし、事実はこの時から“計算尺戦略が常態化したんだ”」と。
 OR利用推進はその初期の段階でもこんなシーンがあった。その後の平時における利用にもそれは変わらない。数理担当者は組織内で如何に立ち回るか、考えさせられるエピソードである。

2009年8月22日土曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(17)

17.終の車? BMW-320の5回目の車検を迎えた年、2006年この車を買い替えることにした。同時期所有していたMR-Sは楽しい車だったが、長期旅行には向かない。出来ればグランドツーリングに適した高性能車が欲しかったが、2台とも私好みとはいかないのでファミリーカーの中から選ぶことにした。
 1970年代から、前輪駆動(FF)大衆車の世界を切り開いてきたフォルクスワーゲン・ゴルフには惹かれていた。当時大衆車と言え外車は決して安くはなかった。「いつかはクラウン」はトヨタのキャッチフレーズだが、私の心には「いつかはゴルフ」があった。70年代に比べれば価格も国産車と接近していたし、性能も当然進化していた。しかし、問題はそのサイズ(特に車幅)である。年々欧州の安全規定が強化されるなかで、ゴルフもついに3ナンバーになってしまっていた。
 そこでゴルフと同じコンセプトで作られている、一段小ぶりの“ポロ”にかつてのゴルフファン(息子を含む)が移っている事を知り、この車に試乗したところ、取り回し、運転位置(特に高さ)、シートのつくりなどたちまち気に入ってしまい、一発でこれに決めた。特にシートの適度な硬さは高齢者に有り難い仕様(腰への負担が柔らかいものより軽い)であり、今でも高く評価している。この車では購入早々、福島県の三春へ天然記念物の“滝桜”見学に出かけたり、長野県の昼神温泉を拠点に、木曽駒や馬籠宿・妻籠宿などに出かけたりている。高速道路を利用した、これらの長距離走行にも全く不満はなかった。しかし、英国から帰国後MR-Sの後継として購入した、終(つい)の車(?)を得てからは街乗り専用になり、走行距離は一向に延びていない。
 英国へ渡る年、2007年6月にMR-Sの二回目の車検が控えていた。5月以降1年間この車をどうするか随分思案した。家族は誰も面倒を見ることに協力してくれそうもない。トヨタにも保管を含めて相談したが良い解決策が見つからない。実は、心の奥では前年から「この車を、渡英を契機に処分し、終の車にチャレンジしろよ」と悪魔が囁いていた。
 スポ-ツカー好きは誰でも、“一度はフェラーリやポルシェに乗ってみたい”と思うものである。これは決して日本だけのことではない。初めてフェラーリ、ポルシェに乗ったのはアメリカの東海岸で車好きの友人達が所有するものだった(フェラーリについては“篤きイタリア-1”に関連記事)。彼らは一様に、走り出すと車の特徴を自慢気に話し始めたものだった。ただこれらの車は欧米人でも簡単に手に出来るものではない。フェラーリはIBMの天才プログラマーであるイタリア人(当時はニュージャージに在住)の友人が、中古車を自分の手で丹念にレストアーしたものだったし、ポルシェ(最上級のカレラS)の方は同じIBMで本社の役員まで務め、ワシントン郊外のお城のような家に住む友人が所有する複数の高級車の一台だった。いずれのケースも私にとってそれは“夢のまた夢”の状態だった。現実は先に紹介したMR-Sで満足せざるを得なかった。
 幽かに“もしかして、いずれ”の感を抱くのはそのMR-Sを所有する数年前、ポルシェがエントリーモデルとして“ボクスター(Boxster)”を発表した時である。発売当初専門家の評価は今一で“プアーマンズ・ポルシェ”と揶揄されるような状態だった。これは多分にそれまでのエントリーモデル、968の影響と代表モデル、カレラとのデザイン上の違いにあったように感じる。968に積まれたエンジンは、ポルシェを代表するフラット・シックス(水平6気筒)ではなく一般大衆車と同じ直4だったし、パワートレインもFRだった(カレラはリアーエンジンのRR)のだ。
 しかし、ポルシェにはこのボクスターに期するところがあった。この時代ポルシェの経営は決して安泰ではなかった。技術的には優れていても、特殊な車ゆえ販売は伸びない。フェラーリも少し前に経営不振に陥り、フィアットグループ入りしている。ポルシェが単独での生き残りをかけたのがこの車である。エンジンはカレラと同じ水平のストレート・シックス(潤滑方式はオイルパンを無くしたドライサンプ方式;これはF1と同じ、水平対抗と言うエンジン構造と相俟って車の重心を目いっぱい下げられる;高速でのハンドル操作が安定する)、このエンジンを2座シートの後ろに配置したミッドシップ(F1と同じ;一番の重量物が車の中心に来るのでハンドル操作が安定する)。屋根はソフトトップでオープン可。しかもティプトロニックと言うトルコンを介したマニュアル(クラッチが無いのでATと基本的には同じ)操作を装備し、手ごろな価格設定もあって米国市場で大人気となった。ポルシェの目論みは見事に当たり、その後発表した四輪駆動のSUV、カイエンと共にポルシェの経営再生に寄与することになる。
 2007年にはボディ・デザインも二度のモデルチェンジ(マイナーはもっとあるが)を経て、カレラとのポルシェ・イメージ共通化が進み、評論家たちの評価も極めて高くなっていた。
 帰英するとMR-Sの後継車選びを開始した。オープン2座シートは必須。候補はこの他に、アルファロメオ・スパイダー(FF;見てくれはこれがベスト)、BMW・Z4(FR;前回紹介したカービー教授の車の最新型)が在ったが、MR-Sで体験したミッドシップの味は忘れられない。結局試乗まで至ったのはボクスターだけである。左ハンドルのマニュアル車から右ハンドルのティプトロニックまで、エンジン容量は2.7Lと3.2Lを試し、最終的に2.7L・右ハンドルのティプトロニックに決めた。あれほどマニュアルにこだわっていたのに、それを退けることになったのにはそれなりに考えた末である。
 ポルシェやフェラーリを所有したことのある人に話を聞くと(あるいは雑誌やWebで調べると)、この手のスポーツカーで素人がミスを犯しやすいのがクラッチ・シフト操作だと言う。クラッチ操作が上手くいかずエンジンを空吹かしして傷めてしまう例や未熟なクラッチ操作でクラッチ板をダメにしてしまうことを聞かされた。そしてその修理費が途方も無い額になると言うのである。実際これはエンジンが主として機械技術だけで動いていた時代の名残で、現代のように電子制御になると、エンジンの回転数とトルク(力)の関係がマイルド(専門的にはトルク-スピード・カーブがフラットになる;回転数で極端にエンジンの力が変化しない)になるとそれほど頻繁にシフトを切り替えなくてもいいのだが、名車だけに尾鰭がついて語られていたのかもしれない。かてて加えて、こんな高価な車は自分の歳(その時は68歳)を考えれば10年(いや運転できなくなるまで)は乗るはずだ。10年後は78歳である。そんな歳で、クラッチを踏みながら回転数をコントロール出来るだろうか、特に都市部では?と思い、ティプトロニックにしてしまった。今でもこの時の結論が正しかったどうか疑問に思いながら、それでもこの車の運転を楽しんでいる。去年このトルコンによるツー・ペダルは機械電子制御のPDKに変わった。終の車と思ったが進歩はまだまだ続きそうだ。

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2009年8月15日土曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(16)

16.英国で運転した車 2007年連休明けから10月中旬まで5ヶ月強英国に滞在した。彼の地ではベストシーズンである。当初の予定では1年だったので、そうなれば中古車を購入するつもりだったが、ヴィザの関係で半年となり、レンタカーに切り替えた。滞在した町、ランカスターでの生活は一週一日郊外にある大学へ行くだけ。町の中心部と大学の間はバスが頻繁に走っているので、車の必要はない。結局車は旅をする時だけ、町唯一のレンタカー屋、エイヴィスでその都度借りることにした。
 最初のレンタカーは、渡英二日目マンチェスターからランカスターまでの移動で使ったプジョー307のオートマティックであった。これは航空券やホテルをこちらで予約する際、旅行社が「初めての英国でマニュアルは辛いでしょう」と手配してくれた。その時はフォード(英)・フォーカスと告げられていたが、現地ではプジョーが用意されていた。日本でも人気のある206より一回り大きいが、取り回しの良い車だったし、荷室の大きさが長期旅行者に十分な広さだった。マンチェスターの町はかなり大きいので、ちょっと道を間違えたりしたが、何と言ってもわが国同様左側通行、ラウンドアバウト(ロータリー)のような異なる交通システムもあるが、直ぐに慣れた。
 マンチェスター市街を出るとM6(高速6号線)を北上する。3車線の自動車専用道路(無料)は走りやすい。やがてあの英国の緑の田園風景が始まる。時々運河が併走する。初めての英国でいきなりこの景色。「(アーついに英国に来たんだ!)」と胸が熱くなった。
 この車は住まい(フラット)が決まるまで約2週間借り、ランカスターからは路線バスも出ている、英国を代表する観光地湖水地帯にも二度出かけている。短い期間に二度も出かけたのは、初回出かけた際に国際運転免許証を紛失、幸にも地元の警察署にそれが届けられていたからである(滞英記-1に詳報)。
 二度目にレンタカーを借りたのは6月中旬、ロンドン観光(これは鉄道)なども行い、英国生活にもだいぶ慣れてきたので、車であちこち出かけてみようと思ったからである。今度は英国ではスタンダードのマニュアルで予約を申し込んでおいたが、当日用意されていたのは前回同様プジョー307のオートだった。「マニュアルが用意できなかったのでこれを使ってください。料金はマニュアルと同じにします(安い)」と言うので借りることにした。この車で、「嵐が丘」(滞英記-5)や近隣のヨークシャデール国立公園への日帰りドライブでウォームアップした上で、スコットランドのエジンバラへ2泊の旅に出かけた。エジンバラは大都会だが、スコットランドはイングランドに比べ一段と荒涼感漂う地域で、車で走るとそれを身近に感じることが出来た。帰路はローマ帝国の北限、ハドリアヌス防壁に沿ったドライブも行い、ローマの道を現代から偲んだ(滞英記-6)。
 三度目に借りたのは7月中旬、1983年カリフォルニア大学バークレー校経営大学院で一緒に学んだ英国人ジェフをブリストルに訪ね、そこを基点にコッツウォルズ地方を巡る旅に出た時である。ジェフに依頼し用意してもらった車は、フォード(英)・フィエスタ(同じフォード・グループのマツダ・デミオとほぼ同じ)、プジョー307よりは一クラス下の“スモール”クラスである。当地へ来て初めてのマニュアル。やっと英国人と同じ車環境になった。この車でコツウォルズの村々を回りバフォードで一泊、翌日はチャーチル生誕の地、ブレニム宮殿を訪れ、そこからブリストルへ戻ったのだが二日目は朝から雨、ブレニム宮殿で早めの昼食を摂ってブリストルへ戻る時分には豪雨になっていた。寸断された道を避けながら水を掻き分けるようにして何とかブリストルに辿り着いた雨中の運転は、決して忘れることの出来ない、恐怖のドライブであった。この日はイングランド全土の交通が麻痺するような状態にあった事をその夜と翌朝のTVで知らされた(滞英記-号外)。 道路はいたるところ“駐車場”状態、帰り着いたのは奇跡と言えた。
 この旅の直ぐ後にヨークへ出かける旅を計画しており、そのためのレンタカーを予約しておいた。リクエストは「スモール、マニュアル」である。用意してあった車はルノー・クリオ(日本ではルーテシア)。これで城砦と大聖堂、それと国立鉄道博物館で知られたヨークへ出かけた。この車は8月初旬まで借り、娘とその友人が来宅した際、三度目の湖水地帯訪問にも使った。マニュアル車にも完全に慣れて、いずれも快適なドライブを楽しんだ。
 最後の車は、10月初旬帰国少し前帰国準備もあって借りた、フィアット・プントのディーゼルである。小型ディーゼルを運転するのは初めての経験である。振動・騒音、全く問題ない!ヨーロッパで小型ディーゼルが人気なのがよく分かった。惜しむらくはこの車で長距離ドライブをする機会がなかったことである。
 英国で乗った車は、いずれも“コンパクト”あるいは“スモール”でこれは英国の一般庶民の定番車格と言える、これらの車で自動車専用道路から田舎道まで約2000マイル(3200km)走った。ロンドンのような大都会を除けば、この国のどこでも走れる自信を持って帰国した。
 最後に、自分で運転した車ではないが、忘れられない思い出の車について書いておきたい。それは指導教官、モーリス・カービー教授の車である。「来週は勉強会のあと僕の車で出かけて外で食事をしよう」こう言って、翌週職員駐車場で見せられた車は、ブルー・メタリックのBMW-Z3、ソフトトップ2座のスポーツカー。この車でランカスター郊外のパブ兼イン(旅籠)の“The Stork”へ出かけ、私はビター(黒ビール)を彼はノンアルコールで昼食をした。帰りは彼が若い頃暮らしたフラット(アパート)などへも寄り道し、明るい午後のドライブを楽しんだ。
 彼によれば、人口当り一番この種の車(オープン可の2座スポーツ)が多いのは英国、一見イタリアやスペインのように明るい太陽の国が高そうだが、実は日差しが強すぎるのだと言う。ライト・ウェート・スポーツが戦前英国から生まれたことがよく解った。子育ても終わった彼は現在この車しか所有していない。フランスまで出かけたこともあれば、スーパーへの買い物も夫人とこの車で出かけると言う。
 仕事(ORの歴史研究)以外にもお互い共通の趣味がある。英国社会ではこれは大事なことだ。だからと言って、“仕事に役立つから”などと言う、さもしい動機で趣味を始めるとまともな扱いは受けられない。“日本人のゴルフ”を彼等はそう見ているのですよ!

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2009年8月13日木曜日

決断科学ノート-15(勝敗へのボディブロー)

 今年も終戦の日、8月15日がやってきた。この日が近づくと、記憶は8月9日、満州新京、ソ連侵攻の朝が自然と思い起こされる。一年生の夏休み、目を覚ますと父がばたばたしている。ほとんどの成年男子は即日召集された。卒業した黒門小学校の同級生は、自分は疎開をしていても、敗戦の想い出は3月10日の東京空襲に結びつくようだ。そして、毎年広島・長崎の原爆投下の日は種々の思いをない交ぜにして報じられる。それぞれの忘れられない敗戦記憶である。しかし、これはふらふらになったボクサーに加えられた強烈なストレートパンチに過ぎない。それまで打ち続けられた、着実で絶え間ないボディブロー、シーレーンの分断・途絶こそ、敗戦の決定因子である。
 第二次世界大戦に“大西洋の戦い(The Battle of the Atlantic)”と言うのがある。英米・独人ならこれが何をさすのが直ぐに分かる。Uボートと輸送船団の戦いである。島国英国の最大の弱みは人と物資の補給路、実は第一次大戦でもそうだったのだが、正面から海の戦いに勝ち目のないドイツは、この生命線分断に海軍戦略を傾注した。1917年春、英国の港を出た4隻に1隻は帰らず、米国と中立国の船は英国行きを拒否するまでになっている。
 これを救ったのが護送船団によるシーレーンの確保である。当時の提督たちは駆逐艦を船団護衛に流用することに大反対であった。「毎週2500隻の商船が英国の港を出入りする。とてもそんな数を護衛しきれるものではない」と。ときの首相ロイド・ジョージはそのデーターの分析を命じる。結果は、外洋に出るのは約140隻、あとは沿岸航行用であった。護送船団方式の損失率は1%、独航船のそれは25%であった。
 第一次大戦で日本海軍は日英同盟による要請で、地中海に船団護衛の駆逐艦隊を送っている。生命線保持に死闘してくれた彼らが、戦後英国に感謝されたことは言うまでもない。今もその顕彰碑がマルタ島に残る。
 ドイツのポーランド侵攻は1939年9月1日、英仏の対独宣戦布告は9月3日だが、両陣営が陸で激突するのは1940年5月、英独航空戦は更にその後である。しかし、潜水艦戦争は開戦と同時に始まり、Uボートは9月4日に無灯火航行の客船アシニアを沈め、9月17日は空母カレイジャスを屠っている。英国にとってこれら潜水艦攻撃こそ大戦の始まりだった。
 再び英国が採った海上輸送戦術は、前大戦で学んだ護送船団方式である。1939年9月から12月の間、英海軍は延べ5800隻の商船を護衛し、失った船はたった12隻。一方で102隻の独航船が沈められている。しかし、増強されるUボ-トとその戦術転換、群狼作戦(それぞれの哨戒区にUボートを分散配置して、船団を発見したら短い無線通報を司令部に送り、その海域にUボートを集中させる;護送船団は一番遅い船にスピ-ドを合わせるので捕捉出来る;のちにはこれに対してあまり速度に違いのある船をひとつの船団にまとめないような工夫もORを用いて行われるようになるが)によって1940年夏から商船の被害は激増する。
 水中音波探知機、航空機による哨戒、機載レーダー、護衛空母(機動部隊と違い船団に付いて専ら対潜哨戒・攻撃を行う)、そしていずれの局面にもORが適用され、あらゆる英知を船団護衛、シーレーン確保に傾けていく。1943年これらの努力が実り、Uボートの損害は増加し、商船の損失は急激に減じ、紙一重の戦いに英国は米国とともに勝利する。
 この構図の舞台を太平洋に変えると、潜水艦戦争を挑んできたのは米国、ほとんど裸の輸送船団や独航船で補給を行っていたのが日本となる。生命線は確実に断たれていく。折角地中海で得た、第一次世界大戦での貴重な経験は全く生かされた形跡はない。戦争末期海上護衛隊が組織されているが、泥縄式以外の何ものでもなかった。空襲・原爆・ソ連参戦以前に、既に一人で立っていられる状態ではなかったのである。

2009年8月10日月曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(15)

15.走馬灯の40年-3<SSS後の所有車-3>
 2002年、東燃入社以来満40年になった。昔は区切りの年として永年勤続を表彰され、記念品をもらう年であった。この制度はその後改められ15年をスタートに10年区切りになっていたし、会社自身が横河傘下になっていたので適用されることはなかった。しかし、自分では記念になることを何かしたかった。次女も大学を卒業・就職し、やや生活にゆとりも出てきた。意を決して、念願だった本格的なスポーツカーを購入することを目論んだ。
 一家に2台車を持つことに抵抗が無かったわけではないが、当時母が重度の介護状態で老人病院に入院中、毎週日曜日は見舞いに出かけていた。そのための専用車と言う意味合いもあり、合意形成に至った。
 さて、何を買うか?今までの車選びとはまるで状況は違う。“運転を楽しむ車(Fun to Drive)”をあのSSS以来34年振りに味わえるのである。実は、10年以上前から2台目の車所有は心に在った。退職したら好きな車であちこち走ろうと。その当時欲しいと思っていたのはマツダ・ロードスターであった。この車は戦前から1960年台くらいまで欧州、特に英国で人気のあった“ライト・ウェート・スポーツ”を現代に蘇らせ、ソフトトップ(オープン可)2座のスポーツカー復興の嚆矢となった名車である。現代の日本車で世界マーケットにこれだけ影響を与えた車は未だ出ていない(プリウスにその潜在性はあるが)。
 候補はこのマツダ・ロードスター、ホンダS2000、トヨタMR-SそれにMGB(英ローバー社)、いずれもソフトトップ2座の小型車である。ロードスターとS2000はフロントエンジン・リアドライブ(FR)、オーソドックスなドライブトレインである。それに対してMR-SとMGBはミッドシップ(エンジンをシートの直後に置く;F1と同じ)。この中でスポーツカーとしての本格性から言えばS2000が別格である。エンジンもミッションもこの車のために開発されたものである。それだけに値段も別格であった。それにホンダには前回紹介のアコードのトラウマがある。MGBはローバー社の経営状態が怪しくなってきていた。外車はただでさえ維持サービスに問題がある。英国生まれの正統性に惹かれたが、候補から脱落した。ここまでは机上検討である。FR、ミッドシップ各一台が残った。
 いよいよ試乗比較である。チェックリストを作ってディーラーを訪れた。さすがロードスターはよく売れていることもあり、予告もせずに訪れた店に試乗車が準備されていた。5段マニュアルのそれは予想通り素直で乗り易い車だし、小型乗用車的で使い勝手も良い。特に、MR-Sと比べトランク容量は大差があった。ただ実態は普通の車である。
 MR-Sはまるで国内で売れていない。近くの販売店に行くと、試乗車を準備するには1週間欲しいと言う。ミッドシップは生まれて初めて乗る車、自宅近くのテスト用の道を慎重に考えた。朝比奈から鎌倉に抜ける丘越えワインディング・ロード、横々道路での高速オープン走行、金沢文庫駅周辺の一般道(これはシーケンシャル・マニュアルと言う変速機の扱い方をチェックするため)。試乗当日担当セールスを乗せて近隣を2時間弱乗り回した。ワインディング・ロードではミッドシップ(エンジンが車体中心部にあることで操縦性が安定する)の本領発揮、ハンドリングと車の軌跡が思い通りに行く。他のトヨタ車と違い脚も硬めで安定性が良い。高速道路でのオープン走行も風の巻き込みがほとんど無い。シーケンシャル・マニュアル(F1と同じ)はマニュアル車のダイレクト感をツーペダル(AT同様クラッチペダルが無い)で味わえる。“Fun to Drive”でMR-Sに旗が揚がった。しかし、問題点が無いわけではない。荷物がほとんど積めないのである。僅かな収納スペースがシートの後ろにあるのだが、ここには小型のボストンバッグが2個程度である。しかもエンジンの熱が伝わってくる。とても家族との長距離ドライブには向かない。
 「何のために2台目の車を買うのか?」「(一人で)運転を楽しむためである」「それならば収納スペースは問題ではない」と自問自答してMR-Sの購入を決した。ダークグリーン(ブリティッシュグリーン)の車体、ソフトトップはタン(薄茶)、シートも本皮のタンで決め、ナンバーは入社時与えられた従業員ナンバーと同じにした。納車は東燃創立記念日7月5日の数日前だった。
 グランドツーリングとは言えないが、軽井沢、諏訪湖、伊豆、石和温泉、湯河原などへの一泊旅行に出かけた。軽井沢の帰り小海線沿線を走り、中央高速道へ出た時はもう日はとっぷり暮れ、おまけに激しい雨、大型トラックに挟まれながら走る恐怖(小さい上に車高が低く、トラックのタイヤに押しつぶされそう)はこの種の車で無ければわからない。12月石和温泉から新御坂トンネルを通らず対向車も無い日陰にそこかしこ雪の残る旧道の峠道を飛ばした。御坂峠頂上で目の前に現れた真っ白な富士山。思い出に残るシーンである。もちろん東燃同期入社の湯河原一泊旅行はこの車で馳せ参じた。
 運転に関して得がたい経験をしたのもこの車である。新潮社から出ている“ENGINE”と言う自動車雑誌がある。ここが3ヶ月毎(だったと思う)に主催する“ドライビングレッスン”に参加した。場所は筑波サーキット、午前中は楕円走行やブレーキング、午後がサーキット(ショートコース)走行である。思い切りブレーキを踏むだけでも日常は先ず経験しない。雨中のサーキット走行では派手にスピンをしてしまった。しかし、周回を重ねるごとに加減速・コース取りに慣れ、タイムが上がって行くことにささやかな満足感を得たものである。
 この車には渡英直前、2007年4月まで5年乗り、長期保管先(当初1年の滞在予定だったこと、家族は誰もこの車に触れようともしないため)が見つからず売却した。この年MR-Sの生産も終わった。そしてS2000も。 

 英国にわたり日本とは比較にならぬくらいこの車を目にした。日本のモータリゼーション(車と社会の関係)との違いは明らかである。日本では自動車は“文化”の一部では決してない!悲しいことである。文化に昇華できない耐久消費財は、やがて追随者に取って代わられる。
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2009年8月8日土曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(14)

14.走馬灯の40年-3<SSS後の所有車-2> アコードは良い車だったが、これを所持している間に住まいを三浦半島の先、久里浜に移したこともあり、9年もすると錆が出てきたり、電気系統のトラブルなどが出てきだした。
 次は何にするか?先ず、大きくなった子供たち3人を含め5人が不自由なく乗れるサイズ。車種として、アコードで知ったハッチバックの使い勝手の良さは必要条件(当時はミニバンやワゴン車は特殊なものしかなかった)。アコードで免許を取った家内やこれからその車で免許を取得する可能性のある子供三人に運転し易い車(オートマティック・トランスミッション、パワーステアリング)が条件で、私の“運転の楽しみ”は優先度を下げることにした。
 当然気に入っていたアコードの次世代も有力候補の一つだったが、“エアロデッキ”と称する尾部を大胆に切り落としたスタイルにやや抵抗があった。ほかにトヨタ、三菱、スバルなどに候補があったが、それでも最初にホンダへ出かけた。しかし、この店の対応が最低だった。ライフから乗り継いで14年のホンダ・ファンの気持ちを全く理解していない。下取りのアコードをまるでポンコツ車呼ばわりする。85年、情報サービス子会社に移った身で痛感したことは、営業の難しさ・大切さだった。学生時代学自研の会社訪問でホンダの狭山工場を訪れ、作業服姿で現れた本田宗一郎の謦咳に触れ、それ以来持ち続けたホンダに対する熱いおもいをその時失った。
 営業面で対照的だったのはトヨタである。それまで今ひとつトヨタの柔らかい足回りが好きになれず、購入意欲がわかなかった。しかし、久し振りに試したコロナ5ドアー車は、相変わらずフワフワするフィーリングだったものの、使い勝手や運転のし易さで優れていた。かてて加えて、営業の対応が見事だった。担当セールスマンは個人としてはさえなかったが、係長・課長がよくバックアップし、チームとして顧客の関心を高める努力をしていることが十分伝わった。トヨタの独走をここで始めて納得した。
 予想通り、子供たち2人はこの車を保持している間に免許を取り、やがてこの車を自在に操るようになった。この時期、私は仕事中心の真っ只中にあったし、子供たちは同世代の友人たちとの付き合いが中心の生活に移っていった。もう家族でのグランドツーリングを楽しむことは無かった。“適当な時期に適当な車を持った”とは言えるが、“次は自分が楽しむ車を持ちたい”という思いを醸成した車とも言える。この車に結局1997年(10年)まで乗った。
 運転免許を取って初めて運転した乗用車はMN(本シリーズその2“友の死”で紹介)の家のフォード(ドイツ)・タウヌスだ。卒業前の3月に乗ったのはヒルマン(英国)・ミンクス、和歌山時代帰省した正月、彼はプジョー(フランス)で私の実家にやってきて、一緒に筑波山へ出かけた。どの欧州車も大きさが国産車と変わらない。そして確実に内装は落ち着きがあった。いつの日か欧州車に乗りたいという気持ちはあったが、フランス車や英国車はビジネス面でも技術面でも昔日の勢いを失いつつあった。そしてドイツ車は高価だった。メルセデスはあまりにも成金趣味でいやだったので、コロナの5回目の車検を前に近くに在ったBMWの中古車センターに出かけてみると、国産車の新車程度の価格でかなり上質な中古車が各種揃っていた。BMWは戦前からメルセデスと覇を競い合った自動車メーカーだが、その特徴はエンジンにある。BMWは英語にすると、バイエル・モーター・ワークスの略である。ここでモーターはエンジンのこと。第二次世界大戦ではユンカースと共にジェットエンジンを実用に供している。そして当時も今もその直六(ストレート・シックス)エンジンはシルキー・エンジンと呼ばれ、世界最高の評価を得ている。ためらわず新車から車検を1年残した3シリーズ320(最近の320は4気筒だが購入したのは伝統の6気筒)を購入した。あらゆる点で“作りが確りしている”ことを感じさせる、この車にすっかり魅了された。唯一の不満は家族の要望が強く、オートマティック車であったことである。
 この車で走り回るようになったとき、二人の子供は結婚し独立して行った。二人を式場に運んだのはこの車である。また、両親の死の知らせに駆けつけたのもこの車であった。子育てを終わりグランドツーリングも復活した。高齢の叔父を長野・岐阜の境にある昼神温泉へ連れ立って出かけたり、安曇野から白馬まで走ったりした。思い出深いシルバーメタリックのこの車にも2006年まで9年間乗った。

2009年8月6日木曜日

今月の本棚-11(7月)

On My Bookshelf-11(July)
<今月読んだ本(7月)>

1)世界を制した「日本的技術発想」(志村幸雄);講談社
2)2011年新聞・テレビ消滅(佐々木俊尚);文芸春秋社(新書)
3)汽車旅放浪記(関川夏央);新潮社(文庫)
4)「アメリカ社会」入門(コリン・ジョイス);NHK出版(新書)
5)昭和のまぼろし(小林信彦);文芸春秋社(文庫)

<愚評昧説>
1.世界を制した「日本的技術発想」 わが国製造業の将来を危惧する声が出だしてからもう10年位経つだろうか?ただ当時の危機感は専ら3K職場としての問題だった。特に優秀な人材の理系離れ・現場離れである。しかし、最近はグローバル競争における退潮の兆しに対する危惧に変じてきている。新興国の生産技術の向上が目覚しい反面、生産の現場を海外に移したわが国企業の管理技術の相対的な低下や国際基準作りに対する国際政治上の力不足などがそれである。また、個々の企業がバブル経済崩壊後、投資効率を一段と重視することから来る、シェアー低下なども問題点と言えよう。さらに、国家財政が苦しく政治的な安定を欠く環境から、魅力的な国家プロジェクトも立ち上がってきていない。80年代から90年代にかけての自信過剰ともいえるあの勢いはどこに行ってしまったのだろう?
 こんな世相を反映して、“もの造り”に関する督戦・啓蒙的な書物が数多く出版されてきている。本書もその系列に属するものである。筆者は工業調査会と言う出版社を主宰する、ベテランの技術(科学ではない)ジャーナリストであることから、他の本で主に取り上げられる組立加工業(機械や電子)ばかりでなく化学などにも視点を広げ、日本技術の特質を、事例を中心に素人にも分かりやすくかつ興味深く解説している点は評価できる。伝統文化と技術の関係を解説する件で、和時計(明るさ・暗さが基準)の仕掛けや金沢泊の技術の電子工業(導線の折りたたみ)への応用などを取り上げているのは、エンジニアにも足元を見直す良い機会を与えてくれている。
 しかしながら、この種の本に共通するのだが、“なんとかしよう”と言う熱意は十分伝わるものの、“どうすべきか”が今ひとつはっきりしない。わが国が国際社会の中で豊かに暮らしていくためには、製造業の頑張り以外道は無い。特に金融危機以降その感は益々強くなってきている。基礎研究、新製品開発、市場開拓、製造技術それぞれの分野で日本的発想・文化を最大限に生かした壮大な国家改造、民族の質的変換をテーマにした議論が待たれる。

2.2011年新聞・テレビ消滅  現役時代、新入社員導入教育で新聞を定期購読している者を質したら、ほとんどゼロだった。10年位前のことである。3人の子供(と言っても30代だが)の内一人はネットで十分と新聞を取っていない。タイムズ(英)、ニューヨークタイムズも外から資本を導入した。歴史のあるシカゴ・トリビューンは潰れた。わが国の全国紙も経営は厳しい。明らかに新聞界にグローバルな変化が起こっている。
 テレビの惨状はそれ以前から始まっている。1957年、評論家の大宅壮一が「紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる『一億総白痴化』運動が展開されていると言って好い」と喝破しているが、それから半世紀経ち、まともな社会人はほとんど相手にしていない。私はもう10年以上NHKのニュースと天気予報を観るくらいである(時々テレビ東京のワールド・ビジネス・サテライトを観るが)。
 筆者は元毎日新聞記者であり、その後IT関連メディアの世界に転じたジャーナリストである。その体験に基づく「既存メディア崩壊論」だけに説得力がある。ポイントはメディアの既存ビジネスモデル;種々の既得権と広告それに取材から編集・販売に至る垂直モデルから成っているが、これがネットの普及で急速に壊れてきているという点である。メディア・政・官による既得権複合体の実態は、メディアによって確り封印されてきたが、ネット社会ではこれが隠しきれないことなどこの本でよく分かった。無論既存メディアも電子新聞のようにネット進出を図っているが、日米ともとても経済ベースに乗るものではない。有料でも見に行く情報は専門性の高さが勝負だが、一般紙の内容にはこれだけの価値は無い。
 2011年に焦点を合わせているのは、例の地上ディジタル波への切り替え(電波の独占権が弱まると言うのだがここはよく分からない)がこの年であることと、わが国のメディア・ビジネス環境はアメリカの3年遅れと言う仮説から来ている。
 ネットの力をやや過大評価している気もするが、“驕るメディアは久しからず”が近々実現することを願って止まない。
 この“驕れるメディア”は決して私の私見ではなく、大学生向け講演で全国紙の幹部が「われわれが皆さんに、どの記事を読むべきか教えてあげるんですよ。これが新聞の意味です」と語ったことがこの本に記されている。

3.汽車旅放浪記 一言で言えば“暇つぶしに読む本”である。鉄道モノは最も好きなその種の読み物。読んできたものの中では宮脇俊三、内田百閒などがその代表的なものといえる。もっとも、この二人はただの“暇つぶし”で読んだわけではない。二人とも文学として完成度が高く、“学ぶ”と言う要素もかなりあった。
 筆者はノンフィクション作家としてそこそこ知られた人である(私はこれが初めて)。少年時代から旅と鉄道は好きだったようで、書き出しは就学前に法事で上京するために乗った上越線から始まり、高校時代の自転車旅行へと続いていく。
 この本の特徴は、以前この欄で紹介した「文豪たちの大陸横断鉄道」同様、“鉄道の旅と作家たち”にある。最初の上越線は無論あの「雪国」であり、川端康成である。坂口安吾(久留里線、小港鉄道)、松本清張(鹿児島本線)、林芙美子(筑豊本線)、太宰治の津軽線や漱石の「三四郎」の導入部としての山陽鉄道・東海道本線へと展開していく。ここに登場する作家は私の興味の対象外(漱石は除く)で全く読んでいなだけに、近代日本文学への誘いとして、思わぬ収穫があった。
 もっと嬉しかったのは、二人の先達、宮脇俊三と内田百閒の旅を取り上げていることである。特に宮脇については印刷様式を変えて90ページ近く費やして、その内容や背景の補足説明を、自分の足で確かめながら筆者なりの観察眼で書いている。またあの「阿房(アホウ)列車」シリーズで有名な内田百閒は出身地、岡山だけは行っていないことなどもこの本で知った。彼が借金漬けだった(それでも一等車指定である)ことは有名だが、岡山のそれはとても立ち寄れる状態ではなかったようである。さすが百閒!とも言える姿が浮かんでくる。
 暇つぶしも偶には悪くない。

4.「アメリカ社会」入門  英国人同一筆者(オックスフォードを出た、当時デーリーテレグラフの東京駐在記者)による姉妹編に2006年12月に出版された「ニッポン社会」入門がある。渡英に際して、同期入社のF君が「参考になるよ」と贈ってくれた本である。確かに若干の皮肉とユーモアを交え、英国社会の実態がニッポンとの対比で愉快に描かれ、英国人との付き合いに生かすことが出来た。
 その彼が米国に渡り、ニューヨークを拠点にフリーランスのジャーナリストとして体験する米国社会の特質を、英国・日本と比べながら見事に焙り出している。
 英国生まれの筆者が最初に住んだ外国は日本。結局15年住むことになるのだが、来日前予想していたことは「日本で暮らす前、イギリスとはまるっきり違う国を想像していた。しかし、長く住むうちに、(中略)、結局、人間のすることはどこもたいして変わらないという考えに行き着いた」という。次の外国、アメリカについては「アメリカ人はだいたいイギリス人と似ているだろう、(中略)と考えアメリカにやって来たのだが、完全に間違っていた」とまるで逆の結論に達するのである。
 我々日本人、そしてこの二国以外の人間も、両国にまたがる“紐帯”を強く感じ、“アングロ・サクソン”としばしばひとまとめにする傾向がある。しかし、筆者によれば“米国”は他の国とはまるで異なる国だと言うのである。このユニークさを、ビール、スポーツ、貧富の格差、アメリカ英語、社交術、宗教そして歴史上の逸話などを例に説明していく。
 その事例を二三簡単に紹介すると;米国人は英国が階級社会だと非難するが、政治の世界でファミリーや二世・三世(ジュニアーという名付け方は英国には無い)が幅を利かせているのは圧倒的に米国だと言う。また、信心深く、それが原理主義的傾向を帯びやすいのも英国との違いだと。ビジネスの世界では人脈作り(ネットワーキング)が不可欠で、上昇意欲の強い人ほどこれに熱心だが、英国ではこんなことをあからさまに行う人間は、相手にされない。
 こんな話を聞いていると、 二年前、初めて英国の小さな町に約5ヶ月滞在し、彼らの慎ましい生活の仕方に親近感を感じたことが思い起こされる。
  “グローバル・スタンダード”の掛け声の中で、実は世界のどこにも無い“米国流”のやり方を、ビジネスでも日常生活でも知らず知らずの内に押しつけられている恐れがある事を本書で知った。

5.昭和のまぼろし
 本欄で何度か紹介した、小林信彦“週間文春”連載の時評「本音を申せば」の最新文庫版である。得意のエンターテイメント(映画、芝居など)を材料にしたものが多いが、政治絡みもあり、独特の辛口かつユーモラスな語り口に、スカッとした読後感を味わえる。

2009年8月1日土曜日

決断科学ノート-14(12月30日の国際電話)

 仕事柄海外、特にアメリカのソフトウェア会社と接触する機会は多かった。ソフトウェアと言っても、私の場合広い意味でのプロセス工業(化学や石油関連)の工場操業用と言う極めて特殊な分野のものである。大方は、創業者がその道の権威で、社長兼開発リーダー、経理だけ専門家を雇うと言うような規模である。その究極の形態はこのノート-1で紹介した、CDS社で、創業者は開発に専念し、経営推進者(COO)を雇うのである。こんな会社とビジネスの関係を持つ時は、大体先方も「法律家を入れて面倒な契約を交わしたくないなー」となる。こちらも願ったり叶ったりで、ビジネスの詰めをするのに率直な会話で、短期間で合意点に達する。規模が大きくなっても、創業者が株式公開を目論んだり外部から資金導入したりしない場合は、大体こんなペースで話し合いが進められる。
 問題はこのような会社がある程度の大きさになり、株式公開したり他社に吸収合併されたりした場合である。特に、株主や出資者に経営を託された“経営の専門職”と創業者・開発責任者が分離するような経営管理組織になってくると、創業者の理念や技術者同志の共感に基づく意思決定・合意形成が難しくなってくる。
 2000年の暮れも押し迫った12月30日夕刻、大掃除も終わり風呂に入っていると、家内がコードレスの電話を持って「国際電話よ」と言う。「(こんな年の瀬にいったい誰が?しかも自宅に?)」と思いつつ受話器を取った。それはASP社のD・Mと言うCOO(CEOは居るのだが象徴的な人)からだった。用件は「明日(つまり彼らの年度末)までに、ライセンシングしているソフトウェアパッケージをある数(数億円の単位)購入することを今約束してくれ!そうすれば来年度の卸売価格を大幅に値下げするから」と言うものであった。日本人の感覚では、この年末年始、これだけの金額を電話一本でコミットしろと言う要求は信じられない話である(何度か会食もしているが、自宅の電話番号は教えていなかった。日本人スタッフに調べさせたことが後で分かる)。
 ASP社の基は1980年代MITと米エネルギー庁が協力して立ち上げた、米国プロセス製造業強化策のための、プロセス設計・運転最適化ソフトウェア研究開発プロジェクトチームで、その総帥はL・Eと言う著名なMIT化学工学の教授であった。やがて、出来上がったソフトは学会・産業界で高い評価を受けることになる。そこで、このチームを会社化しNASDAQ上場を果たす。米国の典型的なベンチャービジネス成功モデルと言える。人材もデュポン、ダウ、エクソンなどこの分野を代表する企業や大学から集まり、個人経営が主体の他社を圧倒する勢いで業容を拡大して行った。ただ当初の主要顧客は大学や企業の研究所で、売上・利益は手堅く伸びてはいたものの、他のIT分野成功企業のように株主の期待する大化けは無かった。そこで取られたのが、象徴としてのL・Eを祭り上げ、経営の専門家中心の経営形態に改め、個人ベースの優れた企業をM&Aによって吸収する戦略であった。私とはExxon時代からの付き合いあったT・Bの会社、CDS社もこの戦略の中でASP社に取り込まれてしまう。最大の買収目的は当時ブームになりつつあった、サプライチェーン管理ツールとしてCDS社が持っていた生産管理ソフトウェアを取得することである。ASP社はこの分野に適当な道具が無かったのである。
 CDS社の買収価格は当時の日本円で200億円弱、他社のM&Aとは比べものにならぬくらい高額であったから、経営陣にそれだけのプレッシャーがかかっていた。それまでのプロセス・シミュレーション・ソフトとは異なる大量販売戦略が、明らかに拙速と思えるスピードで展開され、その陣頭指揮をしていたのがCOOのD・Mであった。日本マーケットにおける彼らの誤算は、CDS社と私が経営していたSPI社との長い関係に在った。足掛け10年にわたる総代理店(CDSの吸収後単なる代理店に格下げになったが)として、販売も技術も人材は全てSPI社にあったから、日本でのビジネスは嫌でもこちらに頼らざるを得なかった。
 この買収劇来、私はYahooファイナンスでASP社のインサイダー取引(関係者の株式取得、売買が公開されていた)をモニターするようになった。雇われ経営陣はストックオプションを得るのだが、D・Mを始め経営陣の大方はそれを売却し、高額の売却益を手にしていた。関係者の買い手は専ら創業者、L・Eだった。
 そんな時、上記のような電話が掛かってきたわけである。
 電話への第一答は「これだけ重大な案件は一人では決められない。年が明けたら経営会議にかけ、返事をするよ」と言うものだったが、全く納得しない。「お前はSPI社のCEOなんだろう!何故最終意思決定者として決められないんだ?」「承認規定がありCEOと言えども、これだけの金額は一人で即断は出来ない」「その会議はいつ開けるんだ?明日は?」「日本のビジネスは年末・年始の休暇に入っている。早くて1月5日だ」「世界のどこの国でも年末年始にそんな長い休みは取らない!」「今返事をしなければならないならノーだ!これが私のデシジョンだ!」 ほとんど裸に近い身で2~30分続いたやり取りは、意思決定者の義務・責任と決断を考える局面でいつも思い出す。 彼の非常識ともいえる言動には強烈な外圧が在ったのだ。
 D・Mはその後1年余でASP社を去り、後任のCOOもSEC(証券取引委員会)に虚偽報告で訴えられ、有罪になったと聞く。売却金(譲渡時は株式だったが、その後それを売却)の大半を手にし、一旦ASP社の役員に納まったT・Bは数年後そこを去り、ある日「ASP社に売却したことは間違いだった」とメールしてきた。創設者のL・Eもここを去ったが、昔の名声もあり、個人コンサルタントを続けているらしい。